NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では明智光秀(あけちみつひで)が描かれています。
明智光秀は、本能寺の変で有名ですが、城を築くことに秀でていて、織田信長からいくつも築城を命じられています。
今回は、明智光秀と関わりのある城をまとめてみました。
多くの城で天守が現存していないので、大河ドラマの撮影時にはスタジオセットを使用している可能性があります。
ですので、大河ドラマの撮影ロケ地として、今回ご紹介する城がどこまで使われているのかは分かりません。
しかし、ドラマの中でスタジオセットでの撮影になっていても、「実はこんな城だった!」という情報を知っていると、ドラマをさらに楽しむことができますよね!
明智光秀関連の城の場所や、明智光秀と城の関係についてもご紹介したいと思います。
もくじ
麒麟がくるロケ地【岐阜県】:明智長山城(あけちおさやまじょう)
明智長山城(あけちおさやまじょう)へのアクセス
住所:岐阜県可児市瀬田1238-3
アクセス(車):東海環状自動車道 可児御嵩ICより10分
アクセス(電車) :名鉄広見線明智駅から徒歩25分
明智光秀と明智長山城
明智長山城は、土岐頼兼(ときよりかね)が1342年に美濃源氏(みのげんじ)の流れをくむ下野守(しもつけのかみ)が「明智」と改名してこの城を築きました。
この明智城は、明智光秀の生誕の地として伝えられています。
しかし、明智城は恵那市明智町城山にもあって、こちらで光秀が生まれたという説もあります。
『美濃国諸旧記』に記してあることによると、明智長山城は、1556年に明智光秀の叔父にあたる明智光安(あけちみつやす)と明智光久(あけちみつひさ)が城主であった時に、稲葉山城主の斎藤義龍(さいとうよしたつ)の攻撃を受けて落城しました。
城跡の北麓にある天竜寺には 日本一大きな明智光秀の位牌と明智氏歴代の墓所があります。
しかし明智光秀の墓は、大津市の西教寺に遺族の墓にもあり、その他にも
- 高野山奥の院
- 岐阜県明智町の龍護寺
- 美山町の桔梗塚
- 京都市東山区の尊勝院
- 亀岡市の谷性寺
- 宮津市の盛林寺の首塚
- 京都市山科区の胴塚
と多くの墓が現存しています。
現在は、明智城址の石碑が立っているだけですが、遊歩道が整備されていて、ハイキングコースになっています。
麒麟がくるロケ地【岐阜県】:岐阜城(ぎふじょう)
岐阜城へのアクセス
住所:岐阜県岐阜市天守閣18
アクセス(車):東海北陸道岐阜各務原ICから約20分
アクセス(電車):JR岐阜駅・名鉄岐阜駅からバスで15分
※どちらも岐阜公園から金華山ロープウェイで3分、山頂駅下車徒歩約8分
明智光秀と岐阜城
岐阜城は、斉藤道三(さいとうどうさん)の居城で金華山の山の上にあり、もともとは「稲葉山城」と呼ばれていました。
それを1567年に織田信長(おだのぶなが)が、斉藤道三の孫である斎藤龍興(さいとうたつおき)を攻めて落とし、この地を岐阜と名付け、城も岐阜城としました。
明智光秀は、斉藤道三と織田信長の両方に仕えたことから、とても縁のある城です。
こんな話があります。
光秀は斉藤道三に仕えていた時に、道三(どうさん)と義龍(よしたつ)の親子の争いに巻き込まれました。
光秀は岐阜の地を離れ、越前国の朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼り10年間仕えたとも言われています。
現存の岐阜城は、1956年に再建されたものです。
再建された天守閣西側で、2020年1月に織田信長時代の天守の土台とみられる石垣が発掘されました。
大河ドラマにあわせて、岐阜城内の歴史博物館2階に大河ドラマ館がオープンしました。
岐阜城のすぐ東にある岐阜資料館にも、沢山の資料が展示してあり、明智光秀、織田信長、斉藤道三をもっと詳しく知ることができます。
麒麟がくるロケ地【滋賀県】:安土城(あづちじょう)
安土城へのアクセス
住所:滋賀県近江八幡市安土町下豊浦
アクセス(車): 名神高速竜王ICから20分
アクセス(電車):JR琵琶湖線安土駅から徒歩25分
明智光秀と安土城
安土城は、織田信長が3年をかけて築いた、それまでの城にはない独創的な絢爛豪華な城であったと推測されています。
岐阜城よりも京都に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性がありました。
さらに、北陸街道から京都への要衝に位置していて、越前の一向一揆や越後の上杉謙信を警戒する最適の場所でした。
その城郭の規模は、信長の天下布武を象徴する豪華なつくりだったと語られています。
それ以降の城つくり方の基になりました。その安土城の城のつくり方は、琵琶湖の湖南にある坂本城を手本にしました。
その坂本城を築城したのは、明智光秀でした。
しかし、安土城は本能寺の変で織田信長が討たれた後、明智光秀が火を放ったという説もあり、焼失してしまいました。
現在は、天守閣があった場所に石垣などの一部が残っているだけになっています。
城郭の遺構は、安土山の全体に分布していて、当時の建築物は、仁王門と三重塔が、現在城山の中腹にある摠見寺の境内に残っています。二の丸には信長の霊廟が置かれています。
そんな様々な歴史を散策することができるようになっていて、城址を一周することができます。
麒麟がくるロケ地【滋賀県】:坂本城(さかもとじょう)
坂本城へのアクセス
住所:滋賀県大津市下阪本3丁目
アクセス(車):湖西道路下阪本ICから5分
アクセス(電車):JR大津駅から江若バス下阪本下車、徒歩3分
坂本城は、明智光秀が織田信長の命により、琵琶湖の南湖西側で大津市の北郊に位置して、京と比叡山を抑える目的で築城されました。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」によると、坂本城の完成度は、安土城に次ぐ天下第二の城と評されるほどの城でした。
城内に琵琶湖の水を引き入れた水城で、大天守と小天守があり、その城の姿は非常に豪壮であったと記されています。
明智光秀は、光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指しました。その後、坂本城は近江国の反信長に対して、重要な軍事施設として使用されました。
そして、黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年に亀山城の城主となりましたが、坂本城も引き続き城主となっていたようです。
本能寺の変の後、明智光秀が豊臣秀吉に山崎の合戦で敗れた時に、明智一族の秀満が城主となっていましたが、妻子を刺し殺して坂本城に火を放ち、自害してしまいました。
また明智光秀も、豊臣秀吉との山崎の合戦で敗れた後、この坂本城に戻る途中で殺害されてしまいました。
現在は、遺構がほとんど残っていなくて、城のあった周辺はは住宅街になっていて、石碑がひっそりと建っているだけです。
麒麟がくるロケ地【京都府】:周山城(しゅうざんじょう)
周山城アクセス
住所:京都府京都市右京区京北周山町
アクセス(車):名神高速京都南ICから国道1号線/京都市内~国道162号線
アクセス(電車):JR東海道本線京都駅からJRバス/周山
明智光秀と周山城
明智光秀の丹波攻略で、京北は京から丹波に抜ける交通の要衝として重要な場所でした。
そんな要所を固める目的から、周山城を築きました。
明智光秀の丹波攻略は一進一退でしたが、羽柴秀長、丹羽長秀(にわながひで)らが総攻撃をかけて、丹波の平定が成し遂げられます。
翌年、織田信長からその功績として、明智光秀に丹波1国が与えられました。
本能寺の変以降、豊臣秀吉が周山城を訪れた記録がありますが、それ以降の記録が無く、廃城になったと思われています。
現在は遺構として、石垣や天守台があったと思われるところに、瓦葺きの建物があったことを示す瓦などが落ちています。
見学することはできますが、貴重な資料が多くあるので、決して持ち帰ったりしないで下さいと注意書きがあります。
麒麟がくるロケ地(京都府)亀山城(かめやまじょう)
丹羽亀山城へのアクセス
住所:京都府亀岡市荒塚町内丸1
アクセス(車):京都縦貫自動車道亀岡ICから8分
アクセス(電車):JR山陰本線亀岡駅下車徒歩8分
明智光秀と丹羽亀山城
明智光秀が、織田信長の命を受けて丹波攻略に従事中だった時に、丹波の攻略と平定を目的に亀山城を築城しました。
明智光秀は、丹波の平定後は丹波の拠点として、近隣の村から人を呼び寄せ、城下町をつくり、その整備と領国の経営に着手しました。
亀山城は明智光秀が亡くなった後、小早川秀秋によって修築されて、岡部長盛の代に天下普請により近世城郭としての亀山城が完成します。
その後、豊臣秀吉の天下統一の重要拠点になり、徳川家康もまた丹波亀山城を重要視したことで、明治時代までその姿は残されていました。
そして明治時代になり、政府は廃城を決め、宗教法人大本に払い下げられましたが、新宗教の拡大に不安をもった大日本帝国政府が、城を破壊してしまいました。
紆余曲折の末、荒れ果てた城跡を宗教法人大本が入手して、現在に至ります。
現在は、石垣は宗教法人大本の手によって修復されており、総合受付で見学を申し込むと、内堀跡や本丸付近の石垣を見学することができます。
麒麟がくるロケ地(京都府)黒井城(くろいじょう)
黒井城アクセス
住所:兵庫県丹波市春日町多田
アクセス(車):舞鶴若狭自動車道春日ICから10分
アクセス(電車):JR福知山線黒井駅から登山口まで徒歩約10分
黒井城は別名「保月城」とも呼ばれていて、1335年に赤松貞範(あかまつさだのり)が築きました。
そして、赤井直正(あかいなおまさ)が城主となった時に、織田信長に一度は降伏するのですが、やがて敵対するようになります。
明智光秀は、織田信長の命による丹波を平定する中で、黒井城の赤井直正が亡くなった後、城主となった赤井直義(あかいなおよし)を攻め込み落としました。
そして明智光秀は、重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)を城主として統治させました。
斎藤利三の娘である、徳川三代将軍家光の乳母として有名な春日局(かすがのつぼね)(幼名:福)は、この地で生まれました。
現在は、黒井城の城郭遺構は良好に残されていて、貴重な資料となっています。
黒井城跡の登城路のゆるやかコースと急坂コースの2つのコースがあり、それを登っていくと貴重な城郭を見学することができます。