明智光秀と南光坊天海(なんこうぼうてんかい)は、二人とも謎の多い人物です。
実はこの二人は同一人物ではないかと言われています。
明智光秀と徳川家康との不思議な関係や、天海が残した数々の功績の中に、明智光秀を感じさせるものが多く存在していることから、明智光秀=天海説が提唱されています。
そんな明智光秀と天海が、同一人物だと思われる数多くの証拠を調査してみました。
もくじ
明智光秀=天海説①:天海は家康の側近だった
天海は僧でありながら家康に側近として登用されたこと
僧侶は大名の側近として活躍していた
当時戦国大名は、僧侶を軍師や外交で重宝していました。
今川義元の雪斎、毛利輝元の外交僧として力を発揮して後に豊臣家の安国寺恵瓊、織田信長は沢彦宗恩、信玄は快川紹喜を相談相手や外交僧として活用しています。
このように当時の大名は、僧侶の高い教養と知識を評価していました。
徳川家康の場合は側近として天海をつけ、江戸幕府の礎を築きました。
僧の中でも家康が天海を側近に選んだ理由
それで、なぜ天海が家康に登用されるようになったのかなんですが、謎なんです。
ですがもし、明智光秀=天海説なら、次のようなことが想像されます。
舞台は本能寺の変。
明智光秀は織田信長を討ちましたが、本当の目的は、本能寺で徳川家康を殺そうとしていた織田信長の策略から、徳川家康を逃すためであったという説があります。
どうやら明智光秀は、徳川家康に織田信長の目論見を漏らして、三河に逃げもどる手配までしてあげていたようです。
それを証明するもので、明智光秀に従事した武士・本城惣右衛門(ほんじょう そうえもん)の手記「本城惣右衛門覚書」で光秀軍の生き残り兵の証言に、「信長の命令で家康を討つと思っていた」という記述が残っています。
また、家康が三河に逃げるのに、伊賀を超えて戻るのですが、その伊賀には、光秀の娘が嫁いでいました。
峠越えを手伝ってくれたことのお礼を伝える家康からの書状が見つかっていて、家康は光秀の娘の主人に伊賀超えに協力してもらうことが分かっています。
以上をまとめると、
本能寺の変の時の恩返しで、家康が天海になった光秀を重宝したのではないかと言われています。
明智光秀=天海説②:明智光秀は死んでいない?
明智光秀は死んでいない?
明智光秀が羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れました。
坂本城に逃げ戻る途中の小栗栖(おぐるす)で、落ち武者狩りの農民に襲われ、竹槍で重傷を負ってしまい、光秀は切腹したと言われています。
その時、介錯(かいしゃく・切腹する人の首を切りおとすこと)をしたのは、溝尾庄兵衛(みぞお しげとも)という光秀の家臣です。
溝尾庄兵衛は、光秀の首を寺に埋めようとしたのですが、敵が沢山いてそれができずに近くに首を埋めました。
その埋められた光秀の首は敵軍によって見つけられたのですが、光秀の首といわれるものがいくつもあって、すべての顔の皮が剥がされていました。
それで、本当の明智光秀の首が本物かどうか、確定することはできませんでした。
それで、明智光秀の死を誰も確認できていないことから、本当は死んでいないのではないかと言われています。
光秀は周りには死んだと思わせておいて、実は天海になって、ひっそり再び現れたのではないかと言われています。
明智光秀=天海説③:徳川家康と天海の出会いは?
徳川家康が比叡山探題執行を天海に命じたこと
徳川家康と南光坊天海は、1590年に初めて会ったという説もありますが、それは挨拶をした程度ではないかと言われています。
浅草寺の史料によると1590年の豊臣秀吉の北条攻めの時に、天海は浅草寺の住職・忠豪(ちゅうごう)とともに、徳川家康の陣幕にいたことは記されています。
正式には、天海は家康から1608年に駿府城に呼び出されて出会ったことになっています
しかし、天海はその前年に、比叡山探題執行(ひえいざんたんだいしっこう)を命じられて、南光坊に住んで延暦寺の再興に関わりました。
縁もゆかりもない僧侶に、徳川家康はなんで比叡山探題執行を命じたのでしょうか。
以前から、家康は天海のことを知っていたのではないか?という疑惑が浮かんできます。
ふたりが正式に出会ったのは、本能寺の変から26年後になります。
徳川家康が65歳で、天海が72歳の時でした。
家康は天海との出会いを、「天海僧正は 、人中の仏なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と評しています。
出会ったことが遅すぎたと、悔やんでいるほど天海を評価していました。
それは、本当に初めて出会ったことが遅すぎたと思って言っていたことなのか、明智光秀を呼び寄せることが遅かったと悔やんでいたのかは、どちらともとれると思います。
明智光秀=天海説④:天海の江戸の街つくりは?
天海の江戸の街づくりが罪滅ぼしのよう
天海は徳川家康の傍にいて、様々な政治的手腕を発揮します。
また朝廷との連絡係も務めていたようで、その仕事は明智光秀が、朝廷と織田信長の間に入って交渉役をしていたことと同じ役割をしています。
1616年4月に徳川家康が亡くなると、天海は二代目将軍秀忠の顧問役となり、徳川幕府を安泰に導くために、江戸城の方位学的な吉相を高めることが重要と考えて、そのための事業に力を注ぎ始めます。
なかでも力を注いだのが上野です。
江戸城から見て鬼門の丑寅(うしとら)、北東の方角にあたる上野山に、東叡山寛永寺を建立しました。
東叡山とは、東の比叡山の意味になっています。
比叡山が京都の鬼門の位置に置かれ、都をまもっているのと同じ役割を、寛永寺に担わせたのです。
そして、琵琶湖弁財天に見立てた不忍池弁天堂、清水寺を意識した清水観音堂など、江戸に京を中心とした西の街が再現されていきました。
天海が、これほど京を意識したのは、なぜなのでしょう。
そして琵琶湖を意識したのは何故なのでしょう。
これらの行いは、比叡山の復興を願った天海の宿願でもありました。
比叡山延暦寺を織田信長の命令で焼失させた明智光秀の罪滅ぼしとも思えます。
明智光秀=天海説⑤:三代将軍徳川家光の乳母が春日局になった理由は?
天海が春日局を推していたこと
三代将軍家光の乳母となる春日局は、明智光秀の家臣だった斉藤利三(さいとう としみつ)の娘です。
このとき選考にあたり、家柄及び公家の教養と、夫・正成の戦功が評価されたといわれていますが、天海の口利きがあったことも想像できます。
春日局の父親の利三は、明智光秀が秀吉との山崎の戦いで敗戦して、帰城後に坂本城下の近江国堅田で捕らえられて処刑されています。
明智光秀にとっては、最後まで一緒に戦ってくれた家臣の娘になります。
そんな関係から、天海が強く春日局を推挙したことは、十分に考えられることだと思います。
明智光秀=天海説⑥:天海の墓はどこ?
天海と光秀に出生に関する共通点がある
南光坊天海は、とても長生きだったと伝えられています。
1643年に亡くなっているのですが、満107歳だったと言われています。
しかし、生まれた記録が曖昧で残っていないため、本当の年齢だったかどうかは曖昧でわかりません。
同じように、明智光秀も生まれた年は不明で、子供の頃の記録が分かっていません。
天海の墓所は、遺言により徳川家康が眠る日光の大黒山に埋葬されました。
墓石は巨大な五輪塔で、近世の代表作ともいわれていて、信仰の対象としてはもちろんのこと、芸術的にも貴重なものだといわれています。
そして墓所に拝殿を建てて慈眼堂(じげんどう)と称しています。
1644年に徳川三代将軍家光の命によって、慈眼大師南光坊天海大僧正の廟所が、滋賀の坂本に建立されました。
家光は、比叡山延暦寺を信長に焼き打ちされたあと、復興に尽力したからとの理由でこの地に立てられたとのことですが、明智光秀のゆかりのある坂本に建立されたことに意味があるのではないでしょうか。
明智光秀=天海説⑦:日光の展望台に名前をつけた?
天海が展望台に「明智」という名前を入れたこと
徳川家康を祀っている日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)から西に位置する中禅寺湖に向かう途中に、現在は華厳の滝も観られる一番眺めのいい展望台があります。
この場所を、天海は「明智平」と名付けました。
明智の名前を忘れられないように思いをこめているのだと言われています。
明智光秀=天海説⑧:香典が光秀ゆかりの寺から届く?
明智光秀ゆかりの寺から香典がきたこと
天海が亡くなった時に、西教寺(さいきょうじ)や妙心寺(みょうしんじ)、愛宕威徳院(あたごいとくいん)など、明智光秀ゆかりの寺から香典が届きました。
しかし、天海のゆかりのある寺からは、どこからも香典が届かなかったのです。
明智光秀=天海説⑨:天海の論功行賞が光秀に関係がある?
天海が光秀の家臣に論功行賞を行った
山崎の戦いの時に、明智光秀は多くの家臣に裏切られました。
その中で、明智光秀側について戦った京極家は、関ヶ原の戦いの時に西軍に降伏したにもかかわらず、なぜか関ヶ原の戦いの後に加増(録や領地が褒美として増えること)されています。普通ではありえないことです。
その一方で、光秀側でありながら山崎の戦いの時には、光秀に敵対した筒井家は、1608年に改易(江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、家禄や屋敷を没収されること)されています。
改易の理由は、当時の当主の筒井定次(つつい さだつぐ)が酒色(酒を飲み、おんな遊びをすること)に溺れて政務を顧みなかったことや、キリシタンであったことが理由とされています。
また、筒井氏のような外様大名を畿内に置いておくのは危険と考え、幕府の有力外様大名の取り潰し政策の一環とも伝えられています。
その他にも、明智光秀の孫にあたる織田昌澄(おだ まさずみ)が、大坂の陣で豊臣方として参戦していたのですが、戦の後には徳川家康に命を助けられています。
その後に昌澄は、二代将軍徳川秀忠に旗本(はたもと)として召し抱えられて、近江国甲賀郡内などで2000石を与えられています。
このような徳川家に貢献した理由だけでなく、以前の明智光秀を助けた家臣に恩返しをするかのような論功行賞が行われているのです。
明智光秀=天海説⑩:二人とも地蔵菩薩を信奉していた?
天海も光秀も地蔵菩薩を信奉していたこと
明智光秀と天海は、二人とも地蔵菩薩を信奉していていた記録が残っています。
光秀の地蔵菩薩像は京の廬山寺(ろざんじ)にあり、天海の地蔵菩薩は江戸の正徳院に奉納されていて、現存しています。
明智光秀=天海説11:二人とも平和な世界を願っていた?
天海も光秀も平和を望んだ
徳川家が264年の長い間にわたって江戸幕府を安泰に続けられて、平和な世の中を継続させることができた基盤を築けたのは、天海の手腕が大きく影響しているのです。
天海が作ろうとした国は、まさしく明智光秀が大河ドラマの中で語っている「麒麟がくる国」だったのだと思います。
何よりもそんな平和な世の中への思いが、明智光秀と天海が同じ人間だったことを証明する一番の証拠ではないだろうかと思います。