京都府にある「麒麟がくる」のロケ地・ゆかりの地をご紹介します。
もくじ
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|本能寺跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|武衛陣跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|花の御所跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|室町弟跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|天寧寺
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|金地院明智門
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智光秀首塚
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|妙心寺(明智風呂)
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|旧二条城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|八木城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|本圀寺
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|周山城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|丹羽亀山城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|御影山城
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|谷性寺
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智越
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|篠村八幡宮
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|愛宕神社
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|福知山城
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|御霊神社
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智藪
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|本能寺跡
もともと本能寺は、「本応寺」という寺号で、1415年京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆(にちりゅう)によって創建されました。
その後、歴代貫主が地方に布教をして、日承(にちじょう)の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広まっていて、本能寺を頂点とする本門流教団が成立しました。
本能寺は、早くから種子島に布教をしていて、このことから鉄砲・火薬の入手について戦国大名との関係が深かったのです。
その関係は、大河ドラマ「麒麟がくる」で、本能寺で美濃の刀鍛冶だった伊平次が鉄砲を作っていたことで描かれています。
しかし、1582年明智光秀が織田信長を討った本能寺の変で、焼失してしまいます。
その後、豊臣秀吉によって、現在の中京区下本能寺前町へと移転させられました。
本能寺跡にある石碑の文字が、「能」の字ではなく、今では使われていない字になっています。
それは、五度の火災に遭遇したので匕(火)を嫌い、違った字に替えたそうです。
また、旧地の遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる丸瓦が、堀跡の中から見つかっています。
住所:京都府京都市中京区元本能寺南町
アクセス(車):駐車場がないので、公共交通機関か徒歩をおすすめします。
アクセス(電車):阪急電鉄京都線大宮駅徒歩約10分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|武衛陣跡
武衛陣は、斯波氏の斯波高経の頃に七条邸や三条高倉邸などを京都における本邸としていましたが、斯波義将が勘解由小路に邸宅を構えてのち、同邸が長く斯波氏の本邸となりました。
また応仁の乱の頃の武衛陣は、数多くの櫓を備え、堀を巡らすなど、合戦に備えて要塞化が推し進められました。
実際に洛中の諸大名の屋形はもちろんの事、将軍の邸宅である室町第までもが焼失する中、武衛陣は最後まで持ちこたえたとされています。
戦国時代になると、武衛陣跡地を足利義輝や足利義昭の将軍御所として使用されるようになりました。
しかし、前者は永禄の変で焼失してしまい、後者は織田信長によって解体されてしまいます。
以降の武衛陣跡地は将軍や大名の邸宅として使用されることは無くなったが、現在でも同地周辺の地名は武衛陣町と呼ばれていて、かつてこの地に武衛陣が存在していた事を偲ばせています。
明智光秀によって織田信長を討った本能寺の変の時、ここにあった旧二条城に逃げ込んだ信長の嫡男・信忠は、光秀によって討ち取られました。
住所:京都府京都市上京区武衛陣町
アクセス(車):駐車場が無い為、電車がおすすめです。
アクセス(電車):京都市営地下鉄烏丸線・丸太町駅から徒歩5分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|花の御所跡
「花の御所」は、1378年に室町幕府3代将軍足利義満が造営した足利家の邸宅の通称です。
崇光上皇の御所となったことから、花の御所と呼ばれるようになりました。
南北に通る室町小路(現在の室町通)に正門を設けたことから、室町殿また室町第とも呼ばれました。
足利義満はここを邸宅とするとともに、ここで政治を行ったことで、後の世に室町幕府と呼ばれた政庁です。
度重なる戦乱によって幾度となく消失と再興を繰り返したため、当時の建物は残っていません。
しかし、邸内に建てられた岡松殿より始まる尼門跡寺院の大聖寺が、ほぼ当時の場所に残っています。
大聖寺は足利義満が、正室の叔母に花の御所内の岡松殿を与えて住まわせたことに始まるとされます。
庭内には、鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上された四季折々の花木を配置したと伝わっていて、それも「花の御所」と呼ばれた理由のようです。
義満はここに後円融天皇や関白二条師嗣などを招いて詩歌や蹴鞠の会などを催しました。
住所:京都府京都市上京区烏丸通今出川上ル 大聖寺境内
アクセス(車):駐車場が無い為、電車がおすすめです
アクセス(電車):地下鉄烏丸線 今出川駅から徒歩
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|室町弟跡
室町第は、京都御所のすぐ近くに位置していて、東西は室町通から烏丸通、南北は上立売通から今出川通に及ぶ広大な敷地を持っていました。
室町通に正門を構えていたことから室町幕府の名前の由来にもなっています。
ここにある石碑は敷地の南西角にあたり、この場所から東へ約150メートル、北へ約300メートルが室町第の範囲でした。
2代将軍の足利義詮(あしかが よしあきら)が別邸としたことから始まり、3代将軍の義満が造営して移り住みました。
一時期、崇光上皇の御所となっていたことから「花の御所」と呼ばれました。
その後、8代将軍義政の代になって後継者争いが起こり「応仁の乱」が勃発して、邸宅は東軍の陣地となり西軍の攻撃を受けて焼失してしまいました。
現在は、室町第に関する遺構は、ほとんど残っていないのですが、北側に「花の御所碑」と「花の御所石敷き」を見ることができます。
住所:京都府京都市上京区室町通今出川上ル東側築山南半町
アクセス(車):駐車場が無い為、電車がおすすめです
アクセス(電車):地下鉄烏丸線 今出川駅から徒歩
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|天寧寺
天寧寺は、寺町通沿いにあって、比叡山の眺望を一幅の絵のように見せる山門の「額縁門」と、江戸時代の茶人金森宗和の墓があることで有名です。
もとは会津城下にあったようですが、1573 年から1592年の間に、現在地に移転されたと伝えられています。
本堂の近くに『明智光秀公報恩塔』が建っています。
その石碑に、平成11年の本堂修復工事の際に、須弥壇の屋根裏から明智光秀公の位牌が発見されました。
天正年間と伝えられる会津天寧寺の上洛に係わる報恩のためか、と書かれています。
天寧寺の本堂の天井裏から明智光秀の位牌が出てきたとのことで、光秀の死後数百年を経た江戸時代に作られたものらしいのです。
謀反人ということで天井裏に隠されていたようですが、ちょうど本尊の上あたりに置いていたことから、寺としては相当に大事にしていたのだろうと思われます。
明智光秀と会津の関係は特にないのですが、この寺が建つ以前は比叡山延暦寺の末寺、松陰坊があったそうです。
松陰坊は、延暦寺への参拝前に宿泊するような施設だったようです。
延暦寺と明智光秀は因縁が深く、もとは織田信長の命で延暦寺を焼き落としましたが、光秀は信長から戦後処理を任されました。
この位牌は、延暦寺と光秀の関わりの深さを物語るもので、寺が変わった今も守っていることを伝えているようです。
住所:京都府京都市北区寺町鞍馬口下ル天寧寺門前町301
アクセス(車):舞鶴若狭自動車道福知山ICから車で25分
アクセス(電車):京都市営地下鉄 鞍馬口駅から徒歩6分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|金地院明智門
金地院は、南禅寺の境内にある塔頭寺院(たっちゅうじいん)ですが、もとは現在地と異なる場所に室町幕府第4代将軍足利義持が大業和尚を開山として創立した禅寺でした。
それを、慶長年間(1596年~1615年)に、以心崇伝(いしんすうでん)によって南禅寺塔頭に移建中興しました。
そして、その金地院の拝観窓口から左に進むと、小ぶりな唐門「明智門」があります。
もともと明智門は、大徳寺にあったものを明治時代になって、金地院に移設されました。
その理由は、明治時代になって豊国神社が竣成され、その神門とするために金地院にあった豊国神社の唐門を移すためでした。
いわゆる門の三角トレードでした。
それでは何故、大徳寺に明智門があったのでしょうか。
それは、明智光秀が本能寺の変で織田信長を討った後、安土城に入って信長の金銀財宝を奪い、朝廷に銀500枚を献上して、京都五山や大徳寺にも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈ったそうです。
大徳寺は、光秀の冥福を祈るために、その銀を用いて方丈の南門として建てられたと伝えられています。
住所:京都市左京区南禅寺福地町86-12
アクセス(車):名神高速道路京都東ICより三条方面へ約6km。
アクセス(電車):地下鉄東西線「蹴上」駅1番出口徒歩5分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智光秀首塚
明智光秀が山崎の戦いで敗れ、妻子らもいる本拠地の坂本城に戻ろうとした途中の小栗栖の藪(明智藪)で、土民の落ち武者狩りに遭い、竹槍に刺されて、切腹したとされています。
光秀は切腹した時に溝尾茂朝(みぞお しげとも)に介錯(切腹する人の首を切りおとすこと)をさせて、首を「知恩院」に届けてくれと言い残したとも言われています。
茂朝は、が明智光秀の首を持って、知恩院の近くまで来たところで、夜が明けて来て、首が敵に奪われるのを避けるため、地面に埋めたと伝わっています。
ただし、明智光秀の首は、織田信孝によって本能寺の焼け跡にさらし首が晒されたとも言われています。
諸説あって他にも色々とあるのですが、「京の七口」といわれる街道の出入り口のひとつ粟田口(あわたくち)にて、明智光秀と斉藤利三の死骸が磔(はりつけ)にされたとも言われています。
ただし、江戸時代の中期である1771年、明智光秀の子孫と称した明田利右衛門が 栗田口黒谷の五人組連中から供養の五輪塔をもららい受けたともあります。
そして、自宅にて菩提を弔っていましたが、明治になって、現在の場所に移されました。
石碑には、光秀の戒名である「長存寺殿明窓玄智禅定門」と刻まれています。
でも、明智光秀の首塚とされるものは、丹波・神尾山城から近い亀岡の谷性寺にもあり、大久保山城にいた細川ガラシャに首が送られたとも言われていて、宮津の盛林寺にも明智光秀の宝篋印塔首塚があります。
どれが本当の首塚なのかは、謎のままです。
住所:京都府京都市東山区梅宮町474-23
アクセス(車):名神高速道路京都東ICから25分
アクセス(電車):地下鉄東西線東山駅から徒歩約5分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|妙心寺(明智風呂)
妙心寺は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院です。
この妙心寺の中に、明智光秀の叔父である塔頭・大嶺院の密宗和尚が光秀の菩提を弔うために創建されたといわれている、通称「明智風呂」と呼ばれている浴室があります。
その浴室の左隣にある鐘楼は、風呂が沸いた合図をするものでした。
かつては春日局によって建立された鐘楼がありましたが、火災によって焼失してしまいました。
それで近年、京都の東山仁王門の信行寺にあった鐘楼を譲り受け、移築したのが現存のもので、これも春日局が塔頭の麟祥院に寄進したものだったといわれます。
春日局は、明智光秀の家臣、斉藤利三の娘です。
風呂と言っても湯船はなく、小部屋の後方から湯を沸かす蒸し風呂形式で現代のサウナのような意匠となっています。
その他にも脱衣所のような畳敷きのスペースがあり、当時の姿を今に伝えています。
住所:京都府京都市右京区花園妙心寺町
アクセス(車):名神高速道路京都南IC約33分
アクセス(電車):JR山陰本線花園駅下車 バス妙心寺前下車
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|旧二条城跡
徳川家康が江戸時代初期に造った現在の二条城の他に、旧二条城が存在していました。
それは織田信長が築いた旧二条城です。
室町幕府の第13代将軍の足利義輝が1565年に暗殺されたため、もともと幼少期に出家していた弟の足利義昭は還俗(げんぞく・僧が僧籍を離れて、俗人にかえること)して、室町幕府の再興を目指して織田信長を頼りました。
織田信長は足利義昭の後見を努め義昭とともに上洛しました。
そして信長は自らの地位を固める策のひとつとして、1569年に室町幕府15代将軍・足利義昭の将軍の居城として二条城を造営しました。
しかし、織田信長の留守中に、足利義昭が三好三人衆や斉藤龍興らに襲撃される事件が発生して、明智光秀らに救われ難を逃れました。
このことから信長は、要塞の必要性を感じて、ここに3か月ほどで二条御殿と呼ばれる城を築きました。
その後光秀は、本能寺の変で信長を討ったあと、この二条城に立て籠もった信長の嫡子織田信忠を討ちました。
住所:京都府京都市上京区五町目町
アクセス(車):名神高速道路 京都東IC約26分
アクセス(電車):京都市営地下鉄烏丸線・丸太町駅から徒歩5分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|八木城跡
八木城は丹波守護細川氏の守護代をつとめた内藤氏の居城です。
黒井城、八上城とならぶ丹波国三大城郭のひとつで、キリシタンとして知られる内藤ジョアン(内藤如安)ゆかりの城としても有名です。
1579年織田信長は明智光秀を総大将にして、八上城や黒井城を中心に第二次丹波国征討戦に乗り出していました。
八木城は自然の天険を利用した堅城であったため、簡単に攻め落とすことができず、明智光秀は和議を申し込みましたが、内藤有勝はこれを拒否して、防戦に挑みました。
そこで、明智光秀は八木城の城兵に内通謀反を工作して、これに応じる者があって、城内の本丸、二の丸に火を放ちました。
これを合図に明智光秀軍は攻め寄せ、ついに落城することができました。
その後、丹波国を平定した明智光秀は亀山城 (丹波国)を築城して、丹波国の中心も亀山城に移っていくが、八木城は廃城を免れたようで亀山城の支城として存続していました。
最近になって、国道478号のバイパス工事に伴う八木城の発掘調査が行われた時に、発掘調査地点は特に明智光秀により大幅に手を加えられた可能性が高く、また遺物からも明智光秀時代の様相が高いとされています。
八木城跡は、現在山登りやトレッキングで賑わっています。
住所:京都府南丹市八木町八木
アクセス(車):京都縦貫自動車道八木東ICから15分
アクセス(電車):JR嵯峨野線・八木駅から徒歩15分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|本圀寺
本圀寺は、日蓮宗(法華宗)の宗祖・日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝えられています。
1345年に日静が光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転しました。
「東の祖山」久遠寺に対し、京都に栄えた本圀寺は「西の祖山」と呼ばれています。
しかし、昭和44年、腐敗した僧侶らによる土地や宝物の切り売りなど不祥事が重なり、本圀寺は荒廃して、六条堀川での創建の地を売却して山科に移転しました。
戦国時代、本圀寺は将軍になって間もない足利義昭の仮御所にもなっていました。
それを狙って、阿波から渡海してきた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)および、斎藤龍興・長井道利主従ら牢人衆も加わった軍勢およそ1万が入京して、六条本國寺を囲みました。
そして、『信長公記』によると将軍を守っていた細川藤賢、織田左近、野村越中と名を連ねるその中に、明智光秀の名前もありました。
岐阜に戻っていた織田信長が危急を聞いて駆け付けたとき、すでに御所の危機は去っていました。
信長は功のあった者に褒美を与えたあと、二条の武衛陣跡の改修に着手しました。
そして、着工した御所予定地の周辺に人が住むことを禁じた書状に、連署者として3人の名が添えられていました。
それは織田家の奉行・村井貞勝と、当時貴人の間で著名な僧であった朝山日乗、そして明智光秀の3人の名前でした。
光秀は、すでに医薬や鉄炮について高い知識と技量があったのですが、それまで無名だった光秀が彼らと肩を並べているのは、やはり本國寺の変における活躍が信長の目に止まったのだと思います。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、この本圀寺の変をどのように描かれるのでしょう。
住所:京都府京都市山科区御陵大岩6
アクセス(車):名神高速道路京都東ICより約30分
アクセス(電車):京都市営地下鉄御陵駅から徒歩15分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|周山城跡
周山城は、丹波攻略を進める織田軍・明智光秀が、東丹波の支配拠点として築いた山城で、急峻な山上に巨石を積み上げた総石垣の山城です。
この周山城の名前は明智光秀が、周(中国古代の王朝)の武王の善政に因んで、つけたそうです。
織豊期の特徴的な虎口・石垣が見られて、また西方には土塁と堀切が施された中世山城部分も残っています。
主郭および主郭下の大手道の状態から、山崎合戦の後に破城されたと考えられるも、西側の二の郭付近の状態は非常に良いです。
明智光秀は、信長の命で丹波一国を与えられて、周山城を丹波支配の拠点としました。
ここから京都と若狭を結ぶ周山街道を一望できました。
しかし、光秀は周山城にいた期間は短かったようで、山麓の慈眼寺に光秀の木造座像が今でも保管されていますが、黒く塗りつぶされているのが何かを語っています。
住所:京都府京都市右京区京北
アクセス(車):京都縦貫自動車道八木東ICより約32分
アクセス(電車):JR京都駅からバスで1時間30分周山下車、徒歩45分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|丹羽亀山城跡
明智光秀は、1577年頃、織田信長の命による丹波攻略を進めていました。
その拠点とするために丹波亀山城を築城しました。
保津川と沼地を北に望む小高い丘(荒塚山)に築かれましたが、正確な史料が残っていないため全容は分かっていません。
丹波の他の城と異なり、総構が掘られていて、このことから一国の拠点となる城として、それにふさわしい威容を誇っていたと思います。
光秀は、丹波平定後はそのまま丹波経営の拠点となり、近隣の村から人を呼び寄せ、城下町を形成しました。
1580年に丹波国を拝領した光秀は、本格的な城下町の整備と領国経営に着手します。
しかしそのわずか2 年後に「本能寺の変」が起こります。
本能寺の変の際に、光秀が出陣したのもこの城からでした。
亀山城は、明治維新以降廃城処分となり、所有者が転々としますが、紆余曲折の末、荒れ果てた城跡を宗教法人大本が入手し現在に至ります。
現在は、宗教法人大本の敷地内にあり、石垣は大本によって修復されており、宗教法人大本本部のみろく会館で受付を行い登城するようになっています。
亀岡駅前にある「亀岡市文化資料館」には、天守閣の写真や模型があり、足利尊氏や明智光秀の天下奪取の口火を切る書状や、太閤の朱印状があります。
住所:京都府亀岡市荒塚町内丸1
アクセス(車):京都縦貫自動車道、亀岡ICから2.9km(約8分)
アクセス(電車):JR山陰本線亀岡駅下車徒歩8分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|御影山城
御影山城 (みかげやまじょう).は、京都府亀岡市千歳町出雲にあって丹波地方においては有名な出雲大神宮の背後に聳える御神体山とされている御影山の山上にありました。
この城に関しては、明智光秀の丹波平定後の負け組みの城跡のほとんどがそうであるように、この城跡も負け組みとして詳細な歴史は分かっていません。
この城跡に拠ったと思われる柳本氏は、丹波守護代の内藤氏の傘下であったと思われます
柳本氏は神尾山に巨大な山城を築き上げているので、こちらは規模からみても支城かもしれません。
山は急斜面を登っていくことになり、天然の要害と呼ぶに相応しい山城です。
山の上の城跡は、意外に個々の郭規模は大きく、しかも高い切岸を伴っているので、相当見応えもあり迫力もあります。
明智光秀が、御影山城に攻め込んだ時、国人衆が防戦したと伝わっています。
麓にある出雲大神宮は、この山をご神体としていて、現在も曲輪や堀切が残存しています。
住所:京都府亀岡市千歳町千歳出雲
アクセス(車):京都縦貫道 八木仲ICから12分
アクセス(電車):JR嵯峨野線亀岡駅下車バス出雲神社前約10分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|谷性寺
谷性寺(こくしょうじ)の創建は古く平安時代とされていて、真言宗の寺院で本尊は不動明王です。
谷性寺は、光秀寺とも呼ばれていて、また明智氏の家紋である桔梗が初夏にかけて咲き乱れることから桔梗寺ともいわれていて、丹波平定の拠点となった京都府亀岡市にあります。
その後、丹波は光秀の領国となり、現在の町並みの礎を築きました。
谷性寺は、初夏には「ききょうの里」として門前に広大な花畑が広がり、多くの観光客が訪れます。
谷性寺はこぢんまりとしていて、その境内には光秀の首塚があります。
1855年に光秀を慕う志士が谷性寺を訪れて、光秀公の首塚を残したとのことです。
この話の通りであるなら,
谷性寺の首塚は本当に光秀公の首が埋葬されているわけではなく、供養塔の可能性が高いです。
丹波を平定した光秀は谷性寺の本尊である不動明王を厚く崇敬していて、織田信長を討つために本能寺へ向かう時に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したそうです。
住所:京都府亀岡市宮前町猪倉土山39
アクセス(車):京都縦貫自動車道亀岡IC約15分
アクセス(電車): JR嵯峨野線亀岡駅から京阪京都交通バスで25分猫倉下車
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智越
明智越えは、保津より嵯峨へ越える峰の道です。
明智光秀が本能寺の変の直前に、亀山城から愛宕山の愛宕神社に参詣した時に通ったとされる道です。
一万五千騎の軍を三段に備えて、北より明智越(神越)、唐櫃越、老ノ坂越の三面より行軍したという道の一つになります。
途中に、「大見晴し」と呼ばれる展望が利く場所があり、光秀がたびたび往還した際、南桑平野を眺望していたといわれています。
余部城の福井氏が光秀と戦った際に、先に落ち延びた福井氏の子どもたちが、この場所から余部城の落城を見て、互いに自害したともいわれています。
明智越の頂上から水尾に向けて進む途中に、「土用の冷泉」と呼ばれる窪みがあります。
夏の暑い土用にも水が涸れることがなかった泉があり、馬の水飲み場として使われたといわれています。
現在、およそ8kmのハイキングコースになっていますが、台風などの影響により、一部道が荒れている所があります。
住所:京都府京都市右京区嵯峨愛宕町
アクセス(車):京都縦貫自動車道亀岡ICより25分(亀岡駅)
アクセス(電車):往路JR山陰線亀岡駅 復路JR山陰線保津峡駅
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|篠村八幡宮
篠村八幡宮は、1071年に勅宣(ちょくせん・天皇の命令)によって源頼義が、誉田八幡宮(大阪府羽曳野市)から勧請し創建したとされています。
東は太古から江戸時代中期まで使われた山陰街道(京街道)が通じていて、正面の大鳥居は新道・異人街道に面していて、丹波国と山城国の境に位置している交通の要衝地になっていました。
境内が広大で、足利尊氏が数度参拝していて、戦勝祈願の願文と鏑矢を奉納して、鎌倉幕府打倒の挙兵をした地としても知られています。
それに因んでなのか、明智光秀は本能寺に向けて丹波亀山城を出発して、明智軍1万3000人が集結して、ここで重臣の斉藤利三・明智秀満・同次右衛門・溝尾庄兵衛・藤田伝五と軍議を開き、はじめて謀反のことを打ち明けたと「光秀行状記」にも記してあり、伝承されています。
そして、本能寺に宿所にしていた織田信長の討伐を告げたとされています。
大河ドラマ「麒麟がくる」でも、光秀の祈願するシーンは描かれると思います。
また、篠村八幡宮が源氏の人間にとっては特別な場所で、明智氏は源氏の流れであり、織田信長が平氏の流れであることも、討伐の図式として語ったと思われます。
住所:亀岡市篠町篠八幡裏46
アクセス(車):篠ICから約5分
アクセス(電車):JR嵯峨野線亀岡駅から京阪京都交通バス10分篠下車
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|愛宕神社
愛宕神社(あたごじんじゃ)は、京都府京都市右京区にある神社で、全国に約900社ある愛宕神社の総本社です。
山城・丹波国境の愛宕山山頂に鎮座して、古くより比叡山と共に信仰を集めて、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られていました。
戦国期までは、白雲寺の「勝軍(しょうぐん)地蔵」が信仰を集めました。
よろいかぶとに騎馬姿の、地蔵にしては特異の風貌で、武運長久や戦勝を祈願するため、各地の武将がこぞって参詣しました。
徳川家康も武家の頭領として幕府を開いて間もなく、江戸(現東京・港)に分社を建立させたほどです。
神事を重んじる光秀は、丹波亀山をほぼ手中にした後、たびたび愛宕神社に参拝したといわれています。
ここ愛宕神社で明智光秀が催した連歌会で詠んだ有名な句です。
「時は今 天が下しる 五月哉」
信長の側近、太田牛一(ぎゅういち)が著した「信長公記」によれば、連歌会は本能寺の変の4日前のことになります。
光秀は信長に弓を引く気持ちを、この句に込めたといわれています。
しかし、光秀も連歌会の前には、心が揺れていたのか、くじを二度三度と引いたそうです。
そんな光秀の微妙な心の動きは、大河ドラマ「麒麟がくる」で描かれることでしょう。
住所:京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
アクセス(車):名神高速京都東ICより約1時間
アクセス(電車):京福電鉄嵐山駅前より約15分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|福知山城
福知山城(ふくちやまじょう)は、丹波国天田郡福知山にあった平山城です。
福知山城は、その前身は横山城と呼ばれていて、在地の豪族横山氏の砦でした。
畿内を押さえた織田信長は、豊臣秀吉と明智光秀に中国攻めを命じました。
豊臣秀吉は山陽道から進軍したのに対して、明智光秀は山陰道側より入いり、丹波国を平定しました。
光秀は、当時の城郭建築の粋を集め、その砦の横山城を改築して福知山城と改めました。
築城にあわせて、女婿の明智秀満を城主としました。
明治のはじめに取り壊されて、石垣と銅門番所だけが残っていましたが、昭和61年に趣のある三層四階の天守閣が復元されました。
内部は郷土資料館として公開し、城に関する資料や福知山地方の歴史・文化財を展示しています。
また、望楼からの城下の眺めは抜群です。
住所:京都府福知山市内記5
アクセス(車):京都縦貫自動車道京丹波ICより約30分
アクセス(電車);JR山陰本線福知山駅から徒歩15分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|御霊神社
御霊神社(ごりょうじんじゃ)の祭神は宇賀御霊大神で、元来は稲を主宰し給う神を祀ったことから五穀豊穣商売繁昌の神として崇められてきました。
しかし、この本社を御霊神社と呼ぶようになったのは、明智光秀の霊を合祀したことに由来しています。
光秀は織田信長を倒したことから逆賊の名を史上に遺していますが、光秀は丹波の諸豪が所々に割拠していたものを平定して、この地を福知山と名付けました。
その拠点として福知山城を修造して、由良川に長い堤防を構築してその流路を変えて、氾濫を防ぎました。
また、ここに城下町を建築するに当たっては地子(じし)を免除するなど、色々と善政を施しました。
それで民からは、名君と慕われています。
そのために御霊神社には、明智光秀の書状や古文書など複数残されています。
有名な「明智光秀家中軍法」もここに収められています。
生前人々に慕われて居たものが冤罪を蒙った様な場合に、その御霊を慰めようとした御霊社が各地にありますが、本社もその一例です。
住所:京都府福知山市字中ノ238
アクセス(車):舞鶴若狭自動車道福知山ICから15分
アクセス(電車):JR福知山駅から徒歩10分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智藪
1582年6月2日、明智光秀は本能寺で織田信長の寝込みを襲って、寺に火を放って自害させました。
そして、信長の嫡男織田信忠は宿泊していた妙覚寺から二条御新造に移って抗戦したが、まもなく火を放って自害しました。
本能寺の変です。
その頃、中国の毛利勢と戦っていた羽柴秀吉は、その知らせを聞き、すぐに京へ引き返しました。
そして、明智光秀と羽柴秀吉は、山崎の戦い(天王山の戦い)になりますが、軍勢で劣勢の光秀は敗走して、坂本城に戻ろうとします。
その坂本城に向かっている途中の小栗栖(おぐるす)で、落武者狩りの農民から襲撃されてしまいます。
致命傷を負った明智光秀は、何とかその場から逃れ竹藪に身を隠し、そこで自害をしました。
その場所が、明智藪と言われています。
その時に、介錯(切腹する人の首を切りおとすこと)した家臣の溝尾茂朝が、光秀の首を持って、藪の中の溝に隠したとも、埋めて自分も自刃したとも、首を持って京の妙心寺に向かったとも、坂本城に行ったとも、色々な説があります。
実際に、織田信長が死んだ本能寺の焼け跡に、3000の明智勢の首が晒されたともあり、光秀の首の行方は謎になっています。
明智藪は、現在ある本経寺の東側の崖下にあります。
住所:京都府京都市伏見区小栗栖小阪町 寺領 本教寺
アクセス(車):第二京阪道路巨椋池ICより17分
アクセス(電車):地下鉄東西線醍醐下車徒歩約15分