ロケ地・名所

麒麟がくるロケ地・ゆかりの地【福井県】まとめ

福井県にある「麒麟がくる」のロケ地・ゆかりの地をご紹介します。

麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|一乗谷朝倉氏遺跡

出典元:たびすた

明智光秀は、斉藤氏の内紛で美濃にいられなくなり、朝倉を頼って一乗谷(いちじょうだに)で10年ほどを過ごしたようです。

朝倉氏土岐氏は姻戚関係も多く、それを頼りに来たようです。

しかし、光秀が朝倉氏に仕えたとの記録は残っていないので、頼っただけなのかもしれません。

光秀の一乗谷での生活ぶりは、大河ドラマ「麒麟がくる」で描かれると思いますので、確認してみてください。

また足利義昭は、兄の13代将軍足利義輝を殺されて、流浪の身になり、3年間近江・若狭・越前に滞在して上洛の機会を伺っていました。

一乗谷には、朝倉義景が匿まった足利義昭の滞在所となった御所・安養寺の跡が残っています。

朝倉義景は、義昭を手厚く歓待して、元服の儀も執り行いました。

明智光秀は、そんな足利義昭に従っていて、義昭の滞在所と朝倉館を往復していたようです。

また、光秀と一乗谷を結びつける資料が熊本で見つかり、そこに明智光秀の名前がありました。

それは、「針薬方」(しんやくほう)という医学書で、光秀が近江の田中城に籠った時に、味方に「セイソ散」という傷薬の製法を伝えたと記してあり、そしてセイソ散は、朝倉家の傷薬と書いてあるそうです。

そして、一乗谷朝倉氏遺跡では、薬研や銅匙など医薬に関連した遺物が沢山見つかっていて、光秀と医学の繋がりを証明しています。

朝倉家は5代目義景の時代に、織田信長によって滅ぼされてしまいますが、その後越前を治めた柴田勝家は北之庄を拠点にしました。

そのため一乗谷は辺境となり、その後歴史の中に埋もれてしまいます。

住所:福井県福井市城戸ノ内町
アクセス(車):北陸自動車道 福井ICより8分
アクセス(電車): JR越美北線一乗谷駅から徒歩5分で下城戸 徒歩約30分で朝倉館跡




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智神社

出典元:たびすた

明智光秀が、朝倉氏に身を寄せていた時の住居跡です。

ここで光秀は、家族と親しく過ごし、浪人となったとき快く迎え入れてくれた地区民を守るため、尽力しました。

それは信長と一乗谷朝倉氏の戦乱の際に、柴田勝家が現在の明智神社のある東大味地区に兵を送り込もうとしたが、光秀は住民を守るため勝家にこの地を戦禍から逃れさせるよう安堵状(所領・所職の領有権、知行権などを安堵するために発給される公文書)が出されました。

町内の西蓮寺には、その時の2通の安堵状が残っています。

その時の恩義を忘れず、以来400年間にわたり、光秀屋敷跡に住居のある3軒の農家が高さ13cm程の木彫りの光秀公坐像を、大切に守り続けてきました。

出典元:福井新聞社

そして明治19年になって、ようやく光秀公屋敷跡に小さな祠を建てて、明智神社としてお祀り、東大味の人々はそんな光秀を慕いこの神社を守り続けてきました。

年に一度、光秀の命日である6月13日のみ御開帳が行われ、本尊である光秀の木像を見ることができます。

明智光秀の娘・細川ガラシャ(明智珠)の生誕地でもあります。

住所:福井県福井市東大味
アクセス(車):北陸自動車道福井ICから車で40分
アクセス(電車):JR越美北線越前東郷駅から徒歩約1時間20分 車で約16分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|金ヶ崎古戦場

出典元:敦賀観光協会

金ヶ崎古戦場は、敦賀市街の北東部にある小高い山の金ケ崎城跡にあります。

織田信長は、尾張国を平定し、三河国の徳川家康や、近江国北部(現在の滋賀県)を支配する義弟の浅井長政と同盟を組んでいました。

信長は、明智光秀の仲介で出会った足利義昭を擁して上洛をしました。

その後、信長は足利義昭の名目で各地の大名に上洛を促しましたが、越前国の朝倉義景は再三これを無視します。

これに対して、信長は義景に叛意ありとして、織田・徳川連合軍は越後国へ出陣しました。

敦賀方面に侵攻し、手筒山城を皮切りに金ヶ崎城の朝倉景恒(朝倉義景の家臣)を降伏させます。

信長側が優勢に合戦を進めていましたが、古くより朝倉氏と同盟関係にあった浅井長政が突如反旗を翻したという情報が入りました。

信長は、北を朝倉義景、南を浅井長政に板ばさみされた状態でしたが、近江豪族の朽木元綱」くつきもとつな)の協力を得て、かろうじて京に逃げ延びました。

そのしんがりを、明智光秀と木下藤吉郎がつとめたとのことです。

住所:福井県敦賀市金ヶ崎町
アクセス(車):北陸自動車道敦賀ICより約10分
アクセス(電車):R敦賀駅より「ぐるっと敦賀周遊バス」で約8分 金崎宮下車




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|称念寺

称念寺(しょうねんじ)は、室町時代につくられた縁起によれば、721年に天正天皇の勅を得て、泰澄大師によって創建されました。

新田義貞が1338年に越前国藤島の燈明寺畷の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』に記してあります。

その往生院が当寺とされていて、境内には義貞の墓所があります。

明智軍記』に、光秀は美濃を追われた後、越前に入ったと記されています。

そして越前の朝倉義景の元に仕える前、称念寺(現在の坂井市)の寺地に妻子を住まわせていたこと、また称念寺の僧とともに山代温泉に湯治に行く途中で三国湊や雄島を遊覧した事、光秀が三国の船人に日本海上の航路や沿岸の湊について尋ねた事などが記されています。

明智光秀は、斎藤義龍の大軍に敗れ、妻の煕子や家族と伴に、称念寺に逃れます。

『明智軍記』には、称念寺住職と和歌を詠み、漢詩を作ったことが記されています。

称念寺門前で寺子屋を開きますが、生活は貧しく仕官の芽もなかなか出ませんでした。

やがて朝倉の家臣と連歌の会を催す機会を、称念寺の住職が設定しますが、貧困の光秀には資金がないところを、妻の煕子が自慢の黒髪を売って用立てたものでした。

光秀は、この妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると誓ったのです。

この夫婦愛の物語は称念寺門前の伝承になり、江戸時代の松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中に取材しました。

そして、芭蕉は弟子である伊勢山田の斉藤又玄宅を訪れた際に、才能がありながら貧しいため出世できないと悩む又玄に『月さびよ 明智が妻の 咄(はな)しせむ』の句を贈って励ましました。

ここで1563年に二人の娘、後の忠興の正室細川ガラシャが称念寺の門前で誕生しました。

住所:福井県坂井市丸岡町長崎19-17
アクセス(車):北陸高速道路 丸岡ICから約5分
アクセス(電車):R丸岡駅本丸岡行き京福バス 舟寄バス停で下車し徒歩10分