ロケ地・名所

麒麟がくるロケ地・ゆかりの地【兵庫県】まとめ

兵庫県にある「麒麟がくる」のロケ地・ゆかりの地をご紹介します。

麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|滝山城跡

 

滝山城跡は、山陽新幹線「新神戸駅」裏にあります。

滝山城の築城時期は不明です。

記録上では鎌倉時代末期にその名が現れて、松岡円心が立て篭もったのがこの滝山城であったとされています。

その後記録には現れてなく、次に滝山城が記録に出てくるのは16世紀の半ば、三好長慶の家臣の松永久秀によって城が大きく改築されました。

それが、現在に残る郭や空堀です。

松永久秀は、大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、明智光秀と鉄砲の件で登場しています

『細川両家記』によると、1556年に久秀は長慶を堺から滝山城に招いて、歌舞音曲、千句音曲、能でもてなしたという記載があって、この頃が滝山城の全盛期で越水城を支城としていたようです。

その後城主が何人か替わり、荒木村重(あらき むらしげ)の時に、織田信長に反旗を翻して、最後は信長に攻められ落城しました。

反旗を翻した荒木村重のもとに糾問(罪や悪事を問い詰めて調べること)のために、明智光秀らが滝山城に訪れています。

現在は、多くのハイカーが行き交う県内でも有名なハイキングコースが城の中を通っていて、曲輪、土塁、堀切、竪堀、石垣残石を見ることができます。

住所:兵庫県神戸市中央区葺合町口城山
アクセス(車):阪神高速神戸線生田川ICから3分
アクセス(電車):JR山陽新幹線新神戸駅から徒歩約1分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|八上城跡

出典元:お城めぐりFAN

 

八上城は丹波富士とも呼ばれる高城山に築かれた山城で、波多野秀治の居城として知られています。

織田信長の“天下統一”が始まった天正3年から同7年にかけて、明智光秀、羽柴秀長らの大軍による丹波攻めが始まり、前後11回にわたる攻撃にも八上城はゆるぎませんでした。

山全体が要塞化していて、東西に長く、北西はもっとも険しく、南は細い尾根が続いていて、攻めにくく守りやすい山城でした。

しかし、丹波攻略の司令官だった明智光秀に攻められ、毛利氏や赤井氏の支援があったものの、兵糧攻めにより1579年に落城しました。

その後、篠山城の築城で、八上城の下にあった誓願寺や、来迎寺、観音寺らは篠山に移り、石垣のほとんども篠山城に移され、当時の城壁の偉容を見ることは出来ませんが、天にそびえる古松と丹波富士の呼称を持つ秀峰だけが、歴史を秘めて昔を今に伝えています。

光秀が攻めていた際に、八上城には光秀が本能寺の変」起こした理由のひとつとして挙げられている「和議の際に人質として差し出した自分の母を殺された」という逸話がありますが、創作の可能性が高いとされています。

波多野氏が滅亡した後は、明智光忠が城代として入城しています。

八上城は1609年に廃城になりますが、古風な中世式の遺構が残る典型的な山城です。

登山口から本丸跡まで1km 約45分の登山道が整備されています。

住所:兵庫県篠山市八上上字高城山
アクセス(車):舞鶴若狭自動車道丹南篠山口ICから約12分
アクセス(電車):JR福知山線篠山口駅からバス八上本町下車徒歩3分(登山口の春日神社)




黒井城跡

出典元:城びと

 

黒井城(くろいじょう)は、兵庫県丹波市にある日本の城跡で、別名を保月城(ほげつじょう)、保築城(ほづきじょう)とも言われています。

黒井城は、奥丹波の盟主であった赤井(荻野)氏の居城でした。

織田信長の丹波攻略の際に、二度にわたる明智光秀の攻撃を守りぬいた城です。

本丸をはじめとする山頂の曲輪群は、堅固な石垣で囲まれ、三方に伸びる山稜上に城砦群を配して、全山を要塞としていました。

この城の構えは、光秀の攻撃を長期にわたって凌いだとして、戦国期山城の典型として高い評価を受けています。

氷上郡一帯の統治のため、黒井城に入ったのは、光秀の重臣斎藤利三で、利三は下館を陣屋として、領内の治安と復興に力を注ぎました。

この陣屋で利三の末娘として生まれたのが、後の春日局と伝承されています。

住所:兵庫県丹波市春日町多田
アクセス(車):舞鶴若狭自動車道 春日ICより10分
アクセス(電車):JR 福知山線 黒井駅 徒歩登山口約10分