ロケ地・名所

麒麟がくるロケ地・ゆかりの地【滋賀県】まとめ

滋賀県にある「麒麟がくる」のロケ地・ゆかりの地をご紹介します。

麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|坂本城址

出典元:攻城団

 

坂本城は、明智光秀によって築かれた、琵琶湖に面する平城です

1571年の比叡山焼き討ちの後、光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城しました。

西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから天然の要害を具えた場所でした。

比叡山は近江国と山城国にまたがっていて、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じており、中世から近世において頻繁に利用されていました。

また坂本は、比叡山の物資輸送のための港町として、交通の要所として繁栄していました。

宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』では、安土城につぐ天下第二の城と評されるほどのものでした。

大河ドラマ「麒麟がくる」で、この城はどのように描かれるのか楽しみです。

光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指しました。

しかし本能寺の変の後、1586年豊臣秀吉の命を受けた浅野長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城になり、資材は大津城築城に使用されました。

現在は、坂本城の城郭のあった大半は宅地化され、推定地の中央には国道161号が貫通しています。

そして、この碑だけがひっそりと立っているだけです。

住所:滋賀県大津市下阪本三丁目8-4
アクセス(車):湖西道路下阪本ICから5分
アクセス(電車):JR大津駅から江若バス下阪本下車徒歩3分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|坂本城址公園(明智光秀像)

出典元:たびすた

 

坂本城址は現在、坂本城跡公園として整備され駐車場が用意されています。

湖岸の石垣や明智光秀像はこの駐車場のすぐそばにあります。

坂本城の特徴は、城内に琵琶湖の水を引き入れた、いわゆる「水城形式」の城郭でした。

光秀の茶の湯の師匠である大阪堺の津田宗及(つだそうぎゅう)が坂本城に招かれ、茶会を催した時に「茶会のあと、城内から御座船に乗って安土城に向かった」と記しています。

坂本城が築かれたのは、三津浜と呼ばれる3つの港がこの地にあったことも理由だと思われます。

琵琶湖の水運に目を付けていた信長は、後に長浜城、安土城、大溝城の水城4城を築城して、琵琶湖の水運支配を完成させました。

この坂本城址公園は坂本城の城内ではなく、当時は湖(うみ)の上にあたる場所です。

住所:滋賀県大津市下阪本3丁目1
アクセス(車):名神高速道路京都東ICより27分
アクセス(電車):京阪電車松ノ馬場駅から徒歩25分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|西教寺

出典元:れきたびcafe

 

西教寺(さいきょうじ)は、天台系仏教の一派である天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。

開基(創立者)は聖徳太子とする伝承もありますが明らかではなく、室町時代に中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛(しんせい)が入寺してから栄えました。

1571年織田信長による比叡山焼き討ちの際に、西教寺も焼失しました。

比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡が明智光秀に与えられて、光秀はこの地に坂本城を築きました。

光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されています。

光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存しています。

出典元:ホトカミ

 

また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っていて、本堂の左側の最前部には、明智光秀と正室煕子のお墓があります。

西教寺にも光秀に関する伝承が多く伝わっていて、慈悲深い側面が在った事は事実であることは間違いないと思います。

大河ドラマ「麒麟がくる」で、そんな光秀が描かれています。

西教寺をお参りしていると、屋根の上などいたるところに猿の像を見かけます。

比叡山にはもともと、猿がたくさんいたことから、坂本一帯の神社仏閣では、猿は神様の使いとされていて、西教寺では「護猿(ござる・まもりざる)」と呼ばれています。

ここから見る琵琶湖は絶景です。

住所:滋賀県大津市坂本五丁目13-1
アクセス(車):名神高速道路京都東ICから38分
アクセス(電車):JR比叡山坂本駅から徒歩で30分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智一族供養塔

 

西教寺に、明智光秀の正室煕子の墓があります。

そんな煕子の墓の前に、明智煕子の実家ともされる、妻木(明智)一族の供養碑があります。

煕子は光秀が討たれる6年前に亡くなりました。

この年光秀は石山本願寺との戦いの中、過労(もしくは病気)で倒れ、療養した期間がありました。

その後光秀は回復しますが、その直後に今度は煕子が体調を崩して、そのまま亡くなりました。

看病疲れといった可能性もあるのかもしれません。

西教寺に残っている古文書には、煕子の葬儀の際、光秀本人が参列したという記録が残っているそうです。

当時は妻が先に亡くなっても主人は葬儀に参列しないのが風習だったらしいのですが、それにも関わらず光秀は葬儀に参列したとのことです。

大河ドラマ「麒麟がくる」でも、夫婦仲の良い二人が描かれると思います。

住所:滋賀県大津市坂本五丁目13-1
アクセス(車):名神高速道路京都東ICから38分
アクセス(電車):JR比叡山坂本駅から徒歩で30分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|朽木陣屋跡

 

朽木谷城が、現在の高島市朽木にあった平城で、のちに朽木陣屋となりました。

築城時期は不明ですが朽木氏は朽木谷城を拠点に「室町幕府奉公衆」を務め、戦国時代の当主朽木元綱も将軍足利義輝・義昭に仕えました。

織田信長が越前の朝倉攻めを行っている際、浅井長政の裏切りで危機に陥ったときは京都への脱出を助けて、その後、織田信長と豊臣秀吉に仕えて朽木2万石を領しました。

関ヶ原の戦いでは、初め西軍につき、その後徳川家康率いる東軍へと寝返るが恩賞には預かれず9500石に減封され、大名としての資格を失いました。

江戸時代に入ると元綱の末弟稙綱が徳川家光に見出されて、1636年に1万石の大名となりました。

現在、朽木陣屋にはわずかな石垣、井戸などが残されています。

住所:滋賀県高島市朽木野尻478-22
アクセス(車):名神高速道路京都東ICより1時間10分
アクセス(電車):JR安曇川駅朽木線バス朽木グランド前下車徒歩約2分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智左馬助の碑

 

明智左馬助は、明智光秀の家臣で本名を明智秀満(あけち ひでみつ)といい、女婿または異説に従弟(明智光安の子)とも言われていますが、真偽の程は定かではありません。

光秀の家臣として、織田信長を討った本能寺の変では、先鋒となって京都の本能寺を襲撃しました。

その後、安土城の守備に就いていましたが、光秀が羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れたことを知ります。

そして、光秀を救援するために、急遽坂本城を目指し出陣します。

ところが大津まで辿り着いた時、現在の大津市打出浜あたりで、秀吉軍の先鋒武将、堀秀政と遭遇してしまいます。

味方の兵が次々と討たれて、窮地に立たされた秀満(左馬助)は、大胆にも打出浜から、馬に騎乗したまま琵琶湖に乗り入れたと言われています。

堀秀政は、今に沈むと思って眺めていましたが、秀満は何とか唐崎(柳が崎という説もあります)に上陸してしまいます。

びわ湖に乗り入れたと伝わる場所に、石碑が建てられています。

その左馬之助が使用したと伝わる馬具が西教寺に残されており、明智光秀公資料室にて展示されています。

そして無事坂本城に到着したのですが、秀吉の大軍に囲まれてしまった左馬之助は、自ら城に火を放ち自害して、坂本城は落城したと言われています。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の明智左馬助(秀満)役は、間宮祥太朗さんが演じることになっています。

住所:滋賀県大津市打出浜15-15
アクセス(車):名神高速道路大津ICから5分
アクセス(電車):JR大津駅から徒歩15分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|盛安寺

 

盛安寺は天台真盛宗総本山・西教寺の末寺のひとつです。

いつ創建されたのかは不明で、一時は廃寺状態だったようで、荒廃していた時期がありました。

それを越前朝倉氏の家臣・杉若盛安(すぎわかせいあん)が文明年間(1469年~1486年)に再興して、自身の名前を付けたと伝えられています。

その後、織田信長による比叡山焼き討ちの際に兵火にかかりますが、坂本城主であった明智光秀が再興しました。

盛安寺の石垣は穴太衆積みになっていて、穴太衆のという人たちの手のより作られました。

穴太衆は、主に寺院や城郭の石垣施工を請け負った技術者集団です。

出典元:たびすた

 

本堂の横にある太鼓楼(太鼓櫓)には、明智光秀より賜ったとされる陣太鼓があります。

天正年間のある夜、敵の急襲を寺の太鼓を打って知らせた恩賞として賜ったとされています。

住所:滋賀県大津市坂本1丁目17-1
アクセス(車):車西大津バイパス滋賀里ICから5分
アクセス(電車):京阪電気鉄道 石山坂本線 穴太駅より徒歩6分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|東南寺

 

東南寺は、伝教大師最澄(さいちょう)が延暦年間に創建して、比叡山の東南にあることからその名になったといわれていて、延暦寺の末寺です。

最澄は、「近江国の西部の民衆に法華経を分かり易く説教するため」ここで、説法を始めました。

これが東南寺説法とも言われる「戸津説法」のはじまりでした。

現在でも、毎年8月21日から25日5日間、延暦寺の高僧による「戸津説法」が引き継がれ、伝教大師最澄に代わって、延暦寺の高僧が民衆のためわかりやすく説教するもので、天台座主の登竜門とも言われています。

出典元:JAPAN GEOGRAPHIC

 

東南寺の山門を入ると、正面に本堂があり、南側に鐘楼、東側に坂本城落城のときに討死した城主の明智一族とその家来たちの首塚があります。

本能寺の変の直後にあった坂本落城の際の戦死者の首塚です。

この落城はかなりむごたらしい惨状を呈したとされています。

光秀の従弟に当る左馬介光春が、打出の浜で秀吉軍と戦って破れ、かの有名な湖水渡りをして坂本城に逃げましたが、味方に利なしとあきらめて城に火を放って自害しました。

ここは坂本城の二の丸跡だったといわれています。

住所:滋賀県大津市下阪本3丁目6-14
アクセス(車):琵琶湖西縦貫道路坂本北ICより3分
アクセス(電車):京阪電車松ノ馬場駅から徒歩20分




麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智塚

出典元:攻城団

 

明智塚は、滋賀県大津市下坂本の旧国道161号線沿いにあって、当地は坂本城の敷地内だったと推定されています。

当時の本丸と二の丸の境目付近にあたります。

明智塚の由来は、坂本城の落城の際に、光秀の郷義弘(ごうのよしひろ)作の名刀脇差や宝物を埋めた跡で、明智一族の墓所であると傳えられています。

明智塚は、触ると祟られると言い伝えがあって、発掘調査もされず、大切に守られてきたようです。

本能寺の変の後、坂本城を明智秀満が守っていましたが、羽柴秀吉との戦いでこれ以上は無理だと判断をして、城に火を放ち自害しました。

しかし、坂本城にあった宝物が失われることを惜しんで、事前に秀吉の元に目録と一緒に送ったそうです。

その宝物の中に、郷義弘作の脇差がないことを秀吉から問われて、秀満は死での山(人が死後に行く冥土にある険しい山)で光秀に渡すつもりだと自分の腰に差し、秀吉もそれに納得をしたそうです。

その大切にした脇差が、明智塚に埋められています。

明智一族の悲運もあり、毎年6月15日に鎮魂祭が行われています。

住所:滋賀県大津市下阪本三丁目5-35
アクセス(車):湖西道路下坂本ICから5分
アクセス(電車):京阪電車石山坂本線下坂本駅下車徒歩5分