岐阜県にある「麒麟がくる」のロケ地・ゆかりの地をご紹介します。
もくじ
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智長山城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明知城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|天龍寺
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|龍護寺
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|岐阜城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|白山神社
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|大桑城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|落合砦(土岐明智城・多羅砦)
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|西高木家陣屋跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|一日市場八幡神社
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|桔梗塚
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|妻木城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|願興寺
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|土岐高山城跡
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|常在寺
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|道三塚
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|崇福寺
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|光秀公学問所
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|八王子神社(光秀公手植えの楓)
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|お牧の方墓所
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|八幡神社(光秀公の石像)
- 麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|立政寺
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明智長山城跡
明智光秀が、生まれた場所と言われている城です。
しかし、もう一つの明智城が恵那市明智町城山にもあって、光秀がどちらで生まれたのか資料は残っていません。
明智城は、岐阜県可児市瀬田長山にあって、張り出した尾根や谷などの自然地形を生かした典型的な中世の山城です。
可児市の指定史跡になっています。
この城は、1342年美濃源氏の流れをくむ土岐頼兼(とき よりかね)下野守(しもつけのかみ)が「明智」と改名して、城を築きました。
その後約200年の間、明智氏代々の居城として栄えました。
明智長山城は、当時光秀の叔父明智光安(あけち みつやす)、光久(みつひさ)が城主で治めていましたが、稲葉山(岐阜城)城主斎藤義龍の攻撃を受け落城してしまい、光秀は美濃の西部にいた親族を頼り生き延びたと言われています。
現在は、本丸跡や曲輪・土塁などの遺構は比較的綺麗に残っています。
明智城址のある小高い山は、自然の形を生かしハイキングコースとしても整備されていて、展望台からは可児市が一望できます。
住所:岐阜県可児市瀬田
アクセス(車):東海環状道可児御嵩ICから車で10分
アクセス(電車):名鉄広見線明智駅から徒歩23分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|明知城跡
この城も可児市にある明智長山城と同様、明智光秀生誕の城といわれていますが定かではありません。
明知城は岩村城の城主、遠山景朝の子である遠山景重の居城として築城されました。
美濃と信濃の国境に位置するために、織田氏と武田氏の間で争奪戦が繰り広げられました。
武田信玄の家臣・秋山信友や、織田信長の嫡男である織田信忠などによって制圧されています。
「関ケ原の戦い」の際に遠山利景によって平定され、そのまま利景が城主となりました。
現在は、土塁・竪堀・横堀を確認することができます。
城跡では、戦国の荒波にさらされた城郭にふさわしい遺構が数多く見られます。
特に本丸北側の畝状竪堀群は必見です。
城好きな人は散策をしながら、遺構を見学できるので、とても楽しい時間を過ごすことができます。
住所:岐阜県恵那市明智町城山1318-1
アクセス(車):中央自動車道恵那ICから35分
アクセス(電車):明知鉄道明知駅から徒歩約20分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|天龍寺
京都嵐山にある天龍寺は、世界遺産にもなっている臨済宗総本山の天龍寺があります。
それとは違って、こちら可児市(かにし)にある天龍寺は、明智一族の菩提寺とされるお寺で、曹洞宗のお寺です。
明智光秀は、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとされる明智城で、30年間を過ごしたと伝えられていて、その明智城址の麓に、この天龍寺はあります。
天龍寺には、鐘楼の近くに明智光秀一族の墓がありますが、本当に明智一族の墓石かどうか不明のようです。
落城した時に、集められた墓石とも言われています。
天龍寺の本堂には、日本一大きい(184cm)明智光秀の位牌が祀られています。
この184cmの大きさは、6尺1寸3分になり、光秀の命日の6月13日に因んでいるそうです。
またNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、可児市は明智光秀公の生誕地として盛り上がっていて、花フェスタ記念公園内に大河ドラマ館が作られています。
住所:岐阜県可児市瀬田1242
アクセス(車):東海環状線可児御嵩ICより国道21号線可児方面へ10分
アクセス(電車):名鉄広見線御嵩行 明智駅下車 徒歩15分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|龍護寺
元々ここには楞厳院(りょうごんいん)という草庵があったのですが、1596年に明知城主の遠山利景(とおやま としかげ)が城の北に浄地を選んで建立しました。
そして楞厳院(りょうごんいん)を改め龍護寺としました。
そこから龍護寺は遠山家の菩提寺となりました。
ここ龍護寺には、明智光秀の御霊廟(供養塔)がある事が知られています。
供養塔は龍護寺の山門前にあるのですが、光秀公に関する碑は「悲痛な思い」から割れると言われていて、同じように龍護寺にある供養塔も大きく斜めにひび割れが入っているそうです。
また、龍護寺には寺宝として「九条衣」という袈裟(けさ)が所蔵されているのですが、この九条衣の四隅には、光秀の直垂(ひたたれ・主に武家社会で用いられた男性用衣服)の布が縫い込まれていると言われています。
この直垂はある夜ここに現れた落ち武者が持ってきたもので、無念の主君光秀公の永代供養をお願いして去ったそうです。
しかし、この落ち武者の名は残っていないそうです。
住所:岐阜県恵那市明智町1389-1
アクセス(車): 中央・長野自動車道松本ICから国道158号高山
アクセス(電車):明知鉄道線明智駅から徒歩約9分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|岐阜城跡
斎藤道三が下剋上を果たして大名に成りあがった時に、居城としていた稲葉山城です。
明智光秀はそんな道三に仕えて、兵法を学んだとされています。
道三の死後、織田信長が稲葉山城を攻略して、この地方一帯を平定すると、地名を「井の口」から「岐阜」へと名前を変えました。
そして稲葉山城も岐阜城と名を変えて、天下統一の足がかりとなりました。
1576年に織田信長は、岐阜城を息子信忠に譲るまでの間、「天下布武」の朱印を用いて天下統一の志をかかげ、城下町の復興に力を注ぎました。
楽市楽座の保護など、当時としては斬新な政策を打ち出し、岐阜城下は大変な賑わいでした。
明智光秀が信長に仕えるきっかけとなった足利義昭と信長の会談をした立政寺(りゅうしょうじ)があるのも、この岐阜の地でした。
現在ある城は、昭和31年に復興されて、鉄筋コンクリート造り3層4階構造になっています。
岐阜城は岐阜市のシンボルとなっていて、城内は史料展示室、楼上は展望台として多くの人に親しまれています。
日没から夜の11時まで岐阜城は、ライトアップされて、暗闇の中にその姿が浮かび上がります。
住所:岐阜市金華山天守閣18 金華山頂
アクセス(車):東海北陸自動車道岐阜各務原ICから国道21号線から156号を北進
アクセス(電車):JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バス15分 金華山ロープウェイ
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|白山神社
中洞白山神社は、明智光秀の母が出世を祈願したと伝えられていて、学問と出世祈願の神社として知られています。
この神社はとても小さな神社で、近くに同じ名前の白山神社があり、よく間違えてしまいます。
明智光秀は、土岐四郎基頼と地元の豪族の娘との間に中洞で生まれたそうで、産湯に使った井戸があります。
その後、明智城主明智光綱の養子となりました。
また、産湯の井戸に向かって左手に桔梗塚への道があり、少し歩くと桔梗塚があります。
桔梗塚は、林の中の静かな場所にあり、向かって左手に見える石塔と五輪の塔が明智光秀の墓だと言われています。
山崎の戦いの後、明智光秀は生き延びていて、この地で荒深小五郎という名前で過ごしていたと伝えられています。
そして、関ヶ原の戦いの時に、徳川家康に加勢しようと向かったそうです。
しかし、その関ヶ原に向かう途中に、言い伝えで残っている藪川(現在の根尾川)の洪水に流されて亡くなったと、伝えられています。
ここまで生き延びてきたのに、あっけない死に方が現実味を感じさせます。
住所: 岐阜県山県市中洞
アクセス(車):東海環状自動車道 関広見ICから車で約16分
アクセス(電車):名鉄岐阜駅からバスで40分 樫瀬下車から徒歩で10分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|大桑城跡
明智光秀とゆかりのある土岐氏が、1535年美濃国守護所をそれまでの枝広(岐阜市長良)から古城山の大桑城に移しました。
標高407.5mの頂上に大桑城が築かれ、城下町も整えられて土岐氏の政治拠点として栄えました。
その後、斎藤道三との激戦の末に大桑城は落城してしまい、美濃の国の乱世が始まりました。
遺構の様子から越前朝倉氏の居城一乗谷にならったとされていて、出土した物からも越前との関係が伺うことができます。
登る道中には、石垣や曲輪跡を残していて、山城であった様子を見れます。
現在、山頂には地元住民らによって作られた、シンボルとして設置されたミニチュアの大桑城があります。
真正面に金華山、天候によっては伊勢湾や伊吹山、名古屋駅の高層ビル群なども望むことができます。
また、条件によっては眼下に雲海が広がり、新たな絶景スポットでもあります。
古城山は登山・ハイキングコースとして親しまれています。
大桑城、および大桑城の城下町の跡は、山県市教育委員会の手で発掘調査が進められています。
住所:岐阜県山県市大桑
アクセス(車):東海環状自動車道 関広見ICから車で約21分
アクセス(電車):JR東海道本線岐阜駅から岐阜バス岐阜高富線「山県市役所」バス停下車、ハーバス大桑線に乗り換えて「椿野」バス停下車、徒歩約17分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|落合砦(土岐明智城・多羅砦)
明智光秀は、1528年3月10日にここ落合砦、別名を土岐明知城、多羅砦(たらとりで)で誕生したといわれています。
もともとは、1247年に遠山景重によって築城されました。
落合砦は明知城の出城として作られた砦で、出丸(お城から飛び出た位置に作られた曲輪)からの見晴らしがよく、三河や中馬街道、信州等の周辺の国の動きをいち早くとらえることができる絶好の場所でしたが、交通の要所であった為に、戦国時代には何度か攻め入られ落城しました。
しかし関ヶ原の合戦の際に遠山家が奪還しました。
城跡は現在公園となっていて、散策道も設けられています。
石垣は見られませんが、多くの曲輪、堀切等が良好に残されています。
特徴的なのは、主要な曲輪の周囲に設けられた「畝状空堀群」(うねじょうたてぼりぐん)と呼ばれる遺構です。
これは斜面に平行するように設けられた堀(横堀)と、斜面に直行するように設けられた複数の堀(竪堀)を組み合わせたもので、斜面を伝って侵入しようとする敵兵の動きを封じる目的で築かれたものです。
光秀の産湯の井戸も見ることができます。
現在は千畳敷公園として整備されていて、砦当時の遺構を確認出来る場所も残っています。
住所:岐阜県恵那市明智町947-10
アクセス(車):中央自動車道恵那ICより国道257号線、国道363号線経由 約40分
アクセス(電車):JR中央線恵那駅より明知鉄道明智駅下車徒歩5分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|西高木家陣屋跡
西高木家陣屋(にしたかぎけじんや)は、多良郷にあった平城で、別名、多良城、多羅城、高木陣屋とも称されています。
高木家は、木曽三川の水行奉行を務めた事で知られていて、幕末まで諸河川の見分けや見回りを務めた家なのです。
そんな高木家の陣屋跡が今も残っているのですが、この地にあったと言われている多羅城で、明智光秀が生まれたという説があります。
東京大学史料編纂所の「大日本史料」の中にある「明智氏一族宮城家相伝系図書」に、「明智光秀は1528年8月17日、石津郡多羅にて生まれる。多羅は進士家の居城なり」という記載があります。
他にも「続群書類従」の明智系図にも「光秀は美濃国多羅城で生まれる」と書かれていますが、多羅城が本当にここにあったのか未だに不明な為、光秀がここで生まれたことも謎になっています。
しかし、明智光秀の娘である細川ガラシャの娘、光秀の孫になる娘の名前が、「多羅」といいますが、偶然でしょうか。
住所:岐阜県大垣市上石津町宮236-1
アクセス(車):名神高速道路関ヶ原ICから国道365号線約15分
アクセス(電車):JR東海道本線関ヶ原駅からバスで宮バス停下車
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|一日市場八幡神社
明智光秀ら、明智氏の祖である美濃源氏の土岐氏の発祥の地として伝わっています。
土岐氏の始祖とされる土岐光衡(ときみつひら)は源頼朝(みなもとのよりとも)に仕えて、 その子孫はここから美濃国全土に勢力を伸ばしていきました。
室町時代には、11代にわたり美濃国守護として権勢を誇り、最盛期には尾張国や伊勢国の守護を兼ねていました。
そして、斎藤道三の下剋上により土岐氏が没落した後も、戦国武将として各地の大名に仕え頭角を現して、光秀をはじめとした庶流の武将らが各地で活躍をしました。
斉藤道三に美濃を乗っ取られる様子は、大河ドラマ「麒麟がくる」で描かれています。
この光秀像が祀られている一日市場八幡神社は、土岐氏の居館「一日市場館」が築かれた場所とされています。
石碑には、明智光秀はここで生まれ、2歳で明智城代の明智光安に引き取られたという言い伝えがあると書かれています。
住所:岐阜県瑞浪市土岐町402
アクセス(車):中央自動車道瑞浪ICから5分
アクセス(電車):JR中央線瑞浪駅から徒歩5分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|桔梗塚
岐阜県山県市中洞にある「桔梗塚」は明智光秀の墓とされています。
明智光秀は1582年、山崎の戦いで命を落としたと伝わっていますが、本当はその時に討たれたのは影武者の「荒木山城守行信」という人物で、光秀は落ち延びて、西洞寺の林間に隠れ住んだという言い伝えが残っています。
そして、光秀は身代わりとなった荒木行信の忠義に深く感謝して、「荒」と「深」をとって名前を「荒深小五郎」と変えて生き延びました。
その後、修行僧の姿になって諸国遍歴の旅に出ますが、18年後の関ヶ原の戦いがはじまると、徳川家康に加勢しようと出陣して向かいます。
しかし、向かう途中の根尾村の藪川で馬と共に流されてしまい、亡くなってしまったそうです。
その亡骸を荒木行信の子供にあたる吉兵衛が村へ持ち帰り、桔梗塚に埋葬したと伝わっています。
桔梗塚では、4月第2日曜日と2月第1日曜日の年2回供養祭が営まれているそうです。
また、この言い伝えをもとに、この地には荒深の苗字が多く、守り続けているそうです。
住所:岐阜県山県市中洞2258
アクセス(車):東海環状自動車道関広見ICから車で約16分
アクセス(電車):JR岐阜駅より岐阜バス板取線樫瀬バス停下車徒歩約16分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|妻木城跡
妻木城跡は土岐市の南部、妻木町を見下ろす標高409mの山頂に築かれた山城跡です。
諸説ありますが、この城は土岐氏が代々治め、そして明智氏、妻木氏に変わっていったと伝わっています。
妻木城主は、代々と陶器の生産を奨励して、織部焼、志野焼などに代表される、現在の美濃焼の基礎を作った領主として知られています。
そしてここが、また明智光秀の正室で、細川ガラシャの母と伝わる妻木煕子(つまきひろこ)の故郷と言われています。
しかし、煕子の生まれた年は、1530年と1534年の2つの説がありますが、いずれも確証はありません。
また、煕子の父親も『細川家記』によると、父は妻木勘解由左衛門範熙(つまきかげゆざえもんのりひろ)とのことですが、別の説では妻木広忠とする見方もあり、これも定かではありません。
妻の煕子も、明智光秀と同様に謎の多い存在です。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、木村文乃さんが演じています。
住所:岐阜県土岐市妻木町
アクセス(車):中央道土岐ICより約20分
アクセス(電車):JR中央線多治見駅妻木行きバス約30分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|願興寺
願興寺は、日本天台宗の祖最澄の創建によるものだそうです。
その後衰退し、武田氏の東濃地域進出の際の兵火により一旦消失してしまいますが、 消失の際に、仏像を僧侶や近隣住民が背負って近在の愚渓寺まで運び出して、隠し通したおかげで、現在でも当時の仏像を拝観することが出来ます。
ここで、笹の才蔵と呼ばれた可児吉長が、幼少期を過ごしたと伝わっています。
才蔵は、美濃国可児郡出身で、明智光秀と同郷であったと言われています。
それで才蔵は本能寺の変の時も、明智光秀に従って戦っています。
山崎の合戦では、光秀の影武者をつとめ敵を引きつけ、光秀から朱槍をもらったという説もあります。
笹の才蔵と言われた所以は、若い頃に宝蔵院流十字槍を学んだ槍の達人で、 戦の時に自身が討ち取った首が分かるように、 笹の葉をくわえさせたという逸話から「笹の才蔵」 と呼ばれました。
その実力は、関ヶ原の戦いの時に、徳川家康にも認められたそうです。
しかし、大河ドラマ「麒麟がくる」で才蔵が出てくるのかは微妙な存在です。
住所:岐阜県可児郡御嵩町御嵩1377-1
アクセス(車):東海環状自動車道可児御嵩ICより3分
アクセス(電車):名鉄広見線御嵩駅下車すぐ
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|土岐高山城跡
土岐高山城は、遠山十八支城のひとつに数えられている城です。
高山城は、清和天皇の臣籍として発祥した美濃源氏、土岐氏の居館を守備するために、鎌倉時代に創建された城です。
土岐高山城は、土岐川の氾濫原を見下ろすように細長い丘陵にあります。
土岐氏は、明智光秀の源流になります。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、美濃の守護土岐氏から斉藤道三が美濃を奪う様子が描かれています。
戦国時代には武田信玄、勝頼親子と織田信長との領土争いの古戦場となり激しい戦いが、数度にわたって交戦がありました。
この史実に基づき麓にある高山公園で、土岐高山城戦国合戦まつりが行われていて、土岐高山城戦国武将隊などが、勇壮で見ごたえある演舞を披露しています。
高山城跡には現在、物見櫓が建てられていて、土岐市街地を一望することができます。
住所:岐阜県土岐市土岐津町高山485
アクセス(車):土岐南多治見ICから自動車で10分
アクセス(電車):JR土岐市駅から徒歩で15分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|常在寺
常在寺(じょうざいじ)は、京都・妙覚寺の旧末寺となり、宗派は日蓮宗です。
創建は1450年で、美濃守護代である斎藤妙椿が、妙覚寺から世尊院・日範を招いて開基しました。
戦国時代になると、妙覚寺の僧であったとされる長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)が美濃で実力者となって、妙覚寺に縁がある常在寺を保護しました。
そして、その子の斎藤道三が美濃を統一して、常在寺を斎藤家の菩提寺と定めたようです。
斉藤道三と明智光秀の関わりは、大河ドラマ「麒麟がくる」で描かれています。
そして本堂を新築して、領下・日野・芥見などの所領を寺領として寄進しました。
常在寺にある斎藤道三の肖像画は、織田信長の正室として嫁いだ、斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)が、父の死後に寄進したものと伝わっています。
道三が長良川の戦いにて討死した際の遺言で、4男の日饒、5男の日覚は仏門に入り、それぞれ常在寺第5世、第6世となっています。
境内には、斎藤道三の供養塔があります。
住所:岐阜県岐阜市梶川町9
アクセス(車):東海北陸自動車道関ICから21分
アクセス(電車):JR岐阜駅名鉄岐阜駅からバス岐阜公園・歴史博物館前下車 徒歩5分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|道三塚
斎藤道三は、1542年名門土岐氏に替わって美濃の国主となり、1554年に嫡男義龍に国を譲り、隠居しました。
しかし、道三と義龍は本当の子でなかったことから仲が悪く、道三は弟たちを可愛がっていた。
しだいに道三と義龍の関係は深刻になっていき、義龍が弟二人を殺害してしまいます。
義龍は、山下の道三に使者を送り、その顛末を自ら道三に伝えました。
それを聞いて道三は驚き、急ぎ兵を集め城下の町を焼き払い、城下から長良川を超えて山県の大桑城にまで逃れました。
そして翌年、長良川で両軍は戦うことになり、義龍の17500余名に対して、道三が動員できたのは2700余名だった。
娘婿の織田信長が、織田信長が援軍を派遣していたのですが、合戦に間に合わなかった。
この合戦で明智氏は道三に与したため、義龍により居城の明智城を攻められ、辛うじて脱出した明智光秀は、流浪の生活が始まったとする説があります。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、道三と義龍の微妙な関係が描かれています。
長良川の戦いで討死にした道三の遺体は、道三塚に葬られました。
その後、斎藤家の菩提寺であった常在寺の日椿上人(にっちんしょうにん)が、それを現在の地に移して、供養碑を建てたといわれています。
住所:岐阜県岐阜市長良福光2494
アクセス(車):東海北陸自動車道岐阜各務原ICから36分
アクセス(電車):JR岐阜駅名鉄岐阜駅からバスで20分北消防署前下車 徒歩2分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|崇福寺
崇福寺(そうふくじ)は、織田信長、有栖川宮家ゆかりの寺院です。
織田信長が、稲葉山城の斎藤道三の孫の斎藤龍興を亡ぼして、1567年に美濃に移ると、ここ崇福寺を菩提所として保護しました。
その後、本能寺の変で信長と息子の信忠が、明智光秀に討たれると信長の側室お鍋の方が、その遺品を送り寺内に埋め、位牌を安置させました。
これが現在の「織田信長父子廟」です。
信長ゆかりの品として、織田信長が愛用したとされる櫓時計や、信長の書状、信長の居城であった清洲城の「鯱瓦」も残されています。
関ヶ原の戦いで、織田信長の孫・織田秀信は、西軍の石田三成に加担しますが、秀信のいた岐阜城は東軍の猛攻撃にあって落城しました。
このとき戦死した兵を弔うため、崇福寺本堂の天井には、岐阜城の床板が張られています。
それは「血天井」と呼ばれていて、今でも血痕が付着しています。
堂内には貴重な資料が展示されているほか、きれいに手入れされた庭では、秋にはドウダンツツジの紅葉を観ることができます。
毎年10月第一土曜日の、ぎふ信長まつりの日に「織田信長公追悼式」が営まれていて、まつりの2日間は無料で開放されています。
住所:岐阜県岐阜市長良福光2403-1
アクセス(車):
アクセス(電車):JR岐阜駅名鉄岐阜駅からバス長良川国際会議場北口下車徒歩3分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|光秀公学問所
明智光秀が若かりし頃に、この明智町万ケ洞にある天神神社で、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招いて、学問に精進したと言われています。
天神神社の祭神は菅原道真公であり、京都北野の天満宮からの分祀と伝えられています。
また、日本大正村の歴史コースNO.6のコースで光秀公学問所跡を目指す事ができます。
ハイキングをしながら歴史を感じることができます。
ここから徒歩4分に大正ロマン館があり、大正時代のヨーロッパの家具・オルゴール・山本芳翠の油絵が展示してあります。
また、神社から徒歩6分のところには日本大正村、日本大正村資料館があります。
大正時代にタイムスリップしたような気分を味わえます。
住所:岐阜県恵那市明智町1318-2
アクセス(車):中央自動車道瑞浪ICより41分
アクセス(電車):明知鉄道明智駅より徒歩で約22分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|八王子神社(光秀公手植えの楓)
八王子神社は、949年に創建されました。
天照大神の8人の王子(王子5人、王女3人)の分霊をこの地に祭ったのが始まりとされています。
八王子神社は、この地域の中心的な神社だったそうですが、遠山氏12代・景行の頃に、武田勢によって城と共に焼かれてしまい、一度焼失してしまいます。
その後は、たびたび造営が繰り返されますが、現在の社殿となったのは、1676年に当時の領主だった遠山半九郎伊次の造営によるもので、現在は県の重要文化財指定を受けています。
文武を志す明智光秀が、学問所には天神を、八王子神社には人麻呂を祀り、社前に紅葉(楓)を植えたと伝えられています。
この社殿には明智氏の家紋である桔梗紋が彫られ、大和絵風の歌聖柿本人麻呂の画像が祀られています。
住所:岐阜県恵那市明智町1400-1
アクセス(車):中央自動車道恵那ICより約40分
アクセス(電車):明知鉄道明智駅より徒歩で約6分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|お牧の方墓所
大河ドラマ「麒麟がくる」で石川さゆりさんが演じている牧です。
明智光秀の母親として、光秀の父である夫を早くに亡くして、光秀に「武士のあるべき姿」を厳しく教えながらも、愛情あふれる優しい母として描かれています。
しかし実際にはお牧の方の史実は全くなく、お牧の方は若狭武田氏の出身とされていますが、生年などの詳細も不明です。
エピソードとして残っているのは、明智光秀が信長の命で丹波国の攻略を進めていて、波多野秀治が守る八上城を兵糧攻めにしていた時の話です。
頑強に籠城を続ける八上城を開城させるために、光秀は波多野一族の命を保証して、その証として自分の母を人質として差し出したと言われています。
それによって波多野秀治は降伏して、安土城へ送られたのですが、信長は波多野秀治をはじめとする兄弟3人を磔にしてしまいました。
それに怒った八上城の家臣は、人質となっていた光秀の母牧は磔にされて、命を落とすことになってしまうのです。
この時の仇討ということで、本能寺の変に繋がっているという人がいますが、この話については後世の創作という説もあります。
八上城跡に「磔の松」が残っているそうですが、この物語は江戸時代になってから遠山信春が書いた軍記物、『総見記(そうけんき)』という読みものの中で描かれていて、創作の域を出ません。
この墓所は、そんなお牧の方のために1743年に建てられたそうです。
八代将軍、徳川吉宗の時代です。
住所:岐阜県恵那市明智町東町1166-1
アクセス(車):中央自動車道 恵那ICより国道257号線、国道363号線経由 40分
アクセス(電車):JR中央線恵那駅より明知鉄道明智駅下車徒歩5分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|八幡神社(光秀公の石像)
明智光秀の先祖にあたる土岐氏の始祖とされる土岐光衡(みつひら)は、源頼朝に仕える鎌倉幕府御家人として旧美濃国土岐郡一日市場に館を構えて「土岐」を名乗り、土岐氏の始祖として伝わっています。
光衡のひ孫の頼貞が、南北朝時代に美濃国初代守護に就任して、その頼貞の子の頼基が「明智氏」の始祖とされています。
現在、居館跡には八幡神社が建てられており、神社の北側には土塁と思われる遺構が確認できます。
また境内には「美濃源氏土岐氏発祥の地」の石碑と案内板、さらに土岐氏の一族である明智光秀の像が建てられています。
光秀像の隣に、土岐光衡のブロンズ像が、2019年に完成しています。
住所:岐阜県瑞浪市土岐町402
アクセス(車):中央自動車道・瑞浪ICから5分
アクセス(電車):JR中央本線瑞浪駅から徒歩10分
麒麟がくるロケ地・ゆかりの地|立政寺
立政寺(りゅうしょうじ)は、浄土宗西山禅林寺派の寺院で、美濃など東海地方の中世浄土宗の一大中心地として栄えた寺です。
浄土宗西山派の高僧であった智通光居が開山したという、由緒あるお寺です。
立政寺は、明智光秀と細川藤孝の仲介で、織田信長が戦国最後の将軍となった足利義昭を迎えた歴史上の重要な舞台にもなりました。
義昭は、還俗して義秋(よしあき)と名乗り、信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任します。
後に、足利義昭は武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を2回も組み、危機的状況になった織田信長でしたが、懇意にしていた時期もありました。
足利義昭が立政寺にいらしたことを記念する「御座所」の石碑もあります。
この上洛を機に、織田信長は天下布武を突き進めることになります。
義昭は、やがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされています。
信長が本能寺の変によって死んだ後も将軍職にありましたが、豊臣政権確立後はこれを辞して、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として待遇され余生を送りました。
住所:岐阜県岐阜市西荘3丁目7-11
アクセス(車):名神高速道路安八ICより24分
アクセス(電車):JR東海道線西岐阜駅下車徒歩5分