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【紙幣人物一覧】紙幣になった人物歴代まとめ!何をした人なの?

2019年5月から令和となり、何かと新しくなってきていますが、2019年4月9日に20年ぶりに日本の紙幣が新しくなることが決定しました。

今回は新しく紙幣の肖像に使われる人物も含めて、歴代の紙幣に印刷された人物を一覧でまとめました。

また、お札に選ばれた方がどんなことをされていたのか?についても併せてお伝えします。

日本の紙幣(お札)の人物一覧

発行開始年 人物 お札の種類
1881年 神功皇后 改造紙幣1円、5円、10円券
1888年 菅原道真 改造兌換銀券5円券
兌換券5円、20円券
日本銀行券5円、35円券
1889年 武内宿禰 改造兌換銀券1円券
兌換券5円券
日本銀行券5円券
兌換券200円券
1890年 和気清麿呂 改造兌換銀券10円券
兌換券10円券
日本銀行券10円券
1891年 藤原鎌足 改造兌換銀券100円券
兌換券100円券
日本銀行券20円券
兌換券200円券
1930年 聖徳太子 兌換券100円券
日本銀行券100円、1000円、5000円、10000円券
1945年 日本武尊 兌換券1000円券
1946年 二宮尊徳 日本銀行券1円券
1948年 板垣退助 50銭政府紙幣
日本銀行券100円券
1951年 高橋是清 日本銀行50円券
1951年 岩倉具視 日本銀行500円券
1963年 伊藤博文 日本銀行券1000円券
1984年 夏目漱石 日本銀行券1000円券
1984年 新渡戸稲造 日本銀行券5000円券
1984年 福沢諭吉 日本銀行券10000円券
2000年 紫式部 日本銀行券2000円券
2004年 野口英世 日本銀行券1000円券
2004年 樋口一葉 日本銀行券5000円券
2024年 渋沢栄一 日本銀行券10000円券
2024年 津田梅子 日本銀行券5000円券
2024年 北里柴三郎 日本銀行券1000円券
翁
意外とお札になっている人って多いんですね!

それでは、1人1人何をした人かを見ていきましょう!

 

神功皇后(じんぐうこうごう)

古墳時代の第14代天皇。

170年~269年。(享年100歳)

  • 武内宿禰と共にクマソ(九州のヤマト王権の敵対勢力)を征伐する
  • 三韓(新羅などの韓国の国々)を征伐する

明治時代から第2次世界大戦終わりまでは学校では「実在する人物」として学校教育で教えられていたそうです。

しかし、現在は「実在していた」という説と、「実在していない」という説の2つがあります。

「古事記」ではオキナガタラシヒメノミコトという名前で記されています。




菅原道真(すがわらのみちざね)

※画像は1930年発行のもの(丁号券)

845年(承和12年)~903年(延喜3年)(享年59歳)。

  • 18歳という若さで今でいう大学生(文章生)になるための試験に合格(祖父が20歳、叔父が23歳で合格)
  • 33歳漢文学・中国史の大学教授(文章博士)になる
  • 37歳で亡くなった父親から私塾を引き継ぐ
  • 学者出身で政治家になる
  • 遣唐使の廃止

優秀だった菅原道真は学者から政治家になったことで、貴族から嫉妬をされるようになります。

そして、藤原時平がありもないような噂を醍醐天皇(当時の天皇)に告げて、菅原道真は九州に左遷されることになりました。

菅原道真が亡くなってからは、都に疫病や落雷、貴族の死などが多くなり、菅原道真の怨霊のせいだと言われるようになります。

その後、947年に菅原道真は「天満天神」として北野天満宮に祀られるようになりました。

現在では、菅原道真の家系に学者が多かったことや菅原道真自身が優秀であったことから、「学問の神様」として信仰されています。

その他にも「免罪の神様」や「雷神」、「農耕神」としても有名です。

ちなみにですが、菅原道真を祀る神社は全国に11000社以上あるとのことです。

 

武内宿禰(たけのうちのすくね)

※画像は1888年発行のもの(改造券)

「日本書紀」では武内宿禰、「古事記」では建内宿禰記されています。

302年生まれ。

記録の年齢が現実的であることから、実在する人物という説が有力だそうです。

24歳で大臣となってからは、景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕えてました。

お札にもなっている「神功皇后」ともかかわりのある人物なんですね。

ちなみにですが、武内宿禰の印刷されたお札はは1889年~1958年までの128年間も発行され続けました。

この128年間というのは、お札の肖像に使われている人の中では最長です。

 

和気清麻呂(わけのきよまろ)

※画像は1910年発行のもの(乙号券)

第11代垂仁天皇の第5皇子。

733年(天平5年)~799年(延暦18年)。(享年67歳)

和気清麻呂は道鏡(どうきょう)という人物の野望を阻止したというとある事件で有名です。

その事件は769年に起こり、『宇佐八幡神託事件(道鏡事件)』と呼ばれています。

称徳天皇(しょうとくてんのう)という女帝に気に入られていた道鏡は、僧侶でありながら天皇の政治にもかかわっていました(仏教中心の政策を推進していた)。

さらに、称徳天皇は道鏡を「政治顧問」から「天王」として後を継がせようと画策しました。

天皇の血が流れていない道鏡に天皇のポジションを与えるために称徳天皇は、「神託(神のお告げ)」を利用することにしました。

称徳天皇の意思を汲み取ってか、直接命ぜられたか分かりませんが、

道鏡の弟と大宰主神の習宜阿曾麻呂(なかとみのすげ の あそまろ)は次のように「宇佐八幡の神託」を朝廷(天皇による政治機関)に伝えました。

「道鏡を皇位につければ天下太平(争いごとがなく社会が安定する)」

この内容が事実であると裏をとるために、あえて称徳天皇は和気清麻呂に宇佐八幡へ向かわせることになりました。

つまり、上記の神託が真実かどうかにかかわらず「和気清麻呂、空気を読んでね!」ということですね。

しかし、宇佐八幡での神託では「天皇の血を引かない道鏡を排除するべし」という内容でした。

この内容を持ち帰り、和気清麻呂は称徳天皇にストレートに伝えたため、称徳天皇の怒りを買い鹿児島へ流罪となりました。

ですが、「道鏡事件」の翌年770年に称徳天皇が失脚した後は道鏡も没落し、現在に至るまで天王の血が続いています。

結果を見れば、天皇の血を途絶えさせることを、和気清麻呂が阻止したことになりますね。




藤原鎌足(ふじわらのかまたり)

※画像は1910年発行のもの(乙号券)

飛鳥時代の政治家で「藤原氏」の始祖。

614年~669年。(享年56歳)

中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、後の天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と協力して、「大化の改新」を進めたことで有名です。

645年に「乙巳の変(いつしのへん)」という反乱が起きました。

ことの発端は、厩戸王(うまやどのおう・聖徳太子)が亡くなったあと、豪族の蘇我氏が天皇家よりも力をもつようになったことです。

聖徳太子の政治の補助をしていた蘇我馬子(そがのうまこ)の息子である蘇我蝦夷(そがのえみし)と孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が自動的に大臣になり、豪族が支配する世の中になりました。

蘇我氏が力を持ち始めたのを危機に感じた中臣鎌足と中大兄皇子によって、蘇我氏の蘇我蝦夷を殺害し、蘇我入鹿(そがのいるか)を自殺に追い込みました。

蘇我氏を滅ぼした以降数年間に「大化の改新」という政治改革が始まりました。

行った内容としては

  • 公地公民制(全ての土地は天皇のもの)
  • 国郡制度(全国を60以上の国に分けて、天皇をトップにする)
  • 班田収授法(天皇が土地を農民に貸す)
  • 租庸調の税制(米・労働・地方の特産品を税として納めさせる)

大化の改新により、豪族中心の政治から天皇中心の政治に変わりました。

 

聖徳太子(しょうとくたいし)

※画像は1910年発行のもの(乙号券)

飛鳥時代の皇族であり政治家です。

547年~622年。(享年49歳)

厩戸王(うまやどのおう)とも呼ばれいています。

主に聖徳太子の行ったこととしては

  • 冠位十二階の制定(氏姓で決まらない身分制度)
  • 十七条憲法の制定(和と仏教の尊重と天皇への服従)
  • 遣隋使の派遣(中国の文化を取り入れる)

です。

さらに、遣隋使の派遣に関係することをいうと、後の遣隋使によって中国(唐)の銭貨「開元通宝」の鋳造方法が取り入れられ、銭貨が日本でも作られるようになりました。

 

日本武尊(やまとたけるのみこと)

出典元:野崎コイン
出典元:野崎コイン

「日本書紀」では日本武尊(やまとたけるのみこと)と記され、「古事記」では倭建命(やまとたけるのみこと)と記されています。

実在する人物という説もあれば、実在する人をモチーフに作られた人物という説、多くの英雄を集めて作られた人物という説などがあります。

  • クマソタケル兄弟征伐(女装して勝利)
  • イズモタケル征伐(刀を取り換えて勝利)
  • 東国遠征(草薙剣で草を切り払い火を無効化)
  • オトタチバナヒメの入水(妻が犠牲になり嵐がおさまる)

などなど、物語があります。

 

二宮尊徳(にのみやたかのり)

※画像は1946年発行のもの(A号券)

江戸時代末期の農民思想家。

1787年(天明7年)~1856年(安政3年)。(享年70歳)

二宮尊徳(にのみやたかのり)は薪を背負って本を読みながら歩いている銅像で有名な「二宮金次郎」です。(通称:金治郎)

  • 5歳のときに濁流により家と田畑が流失する
  • 14歳のときに父が亡くなる
  • 16歳のときに母が亡くなる
  • 伯父の家に住みながら、寝る間を惜しんで読書をする
  • 20歳のときに実家の家を修復し、田畑を復活させる
  • 22歳のとき、亡き母の実家の経済援助をする
  • 多くの村人たちを救済し、復興にも尽力した
  • 56歳には幕府の役人として働く

このように子供時代の苦しい時代を努力によって乗り越え、最終的には周りの人たちにを助けてこられました。

銅像やお札になるのも納得ですね。




板垣退助(いたがきたいすけ)

※画像は1950年発行のもの(B号券)

幕末の武士(土佐藩)、明治時代の政治家。

1837年(天保8年)~1919年(大正8年)。(享年83歳)

  • 38歳のとき、民選議院設立建白書の提出
  • 38歳のとき、立志社の結成(土佐の自由民権運動の中心的結社)
  • 39歳のとき、愛国社の結成(全国の政治団体を統合した結社)
  • 45歳のとき、自由党の結成
  • 60歳のとき、第二次伊藤内閣の内相(旧内務省の国務大臣)に就任
  • 62歳のとき、憲政党を結成
  • 62歳のとき、第一次大隈内閣の内相に就任

といった自由民権運動の中心人物が板垣退助です。

江戸幕府が倒されてできた明治政府では、討幕で功績をあげた薩摩藩(鹿児島県)や長州藩(山口県)出身の政治家が政権を握っていました。

薩長出身者が中心の政治は国民の意見は反映されず、不満を抱く国民が増えていきました。

そこで、板垣退助を中心に「国民が選んだ議員で政治を行うべき」という民選銀設立の建白書を明治政府に提出したことにより、自由民権運動が広がっていきました。

1898年には日本初の政党内閣である、第一次大隈内閣の内相を務められました。

 

高橋是清(たかはしこれきよ)

※画像は1950年発行のもの(B号券)

幕末の武士(仙台藩)、明治・大正・昭和初期の官僚、政治家。

1854年(嘉永7年)~1936年(昭和11年)。(享年81歳)

  • 14歳のとき、アメリカに留学するが奴隷に売られてしまう
  • 帰国後英語教師をする
  • 31歳のとき、農商務省に入る
  • ペルーで銀山開発に取り組むが失敗
  • 39歳のとき、日本銀行の建築事務主任に採用される
  • 40歳のとき、日本銀行西部(九州全域)支店の初代支店長になる
  • 51歳のとき、日露戦争の戦費調達のため外積を募集しに海外へ
  • 58歳のとき、第7代日本銀行総裁となる
  • 60歳のとき、第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣(現在の財務大臣)となる

などなど、アクティブで優秀な人だとわかります。

日本銀行の総裁に加え、総理大臣を1回、大蔵大臣を7回もされています。

「お金」の文字を思い浮かべてしまいそうなところで活躍されていた、高橋是清(たかはしこれきよ)はお札の肖像画に選ばれて当然ですね。

 

岩倉具視(いわくらともみ)

※画像は1950年発行のもの(B号券)

幕末期の公家、明治時代の政治家。

1825年~1883年。(享年59歳)

  • 34歳のとき、廷臣八十八卿列参事件を起こす
  • 43歳のとき、王政復古の大号令
  • 47歳のとき、岩倉具視使節団を引いて欧米視察へ

岩倉具視(いわくらともみ)は岩倉具視使節団で有名ですね。

ですが、使節団の他にも活躍はされていて、

1858年に廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょうれっさんじけん)という抗議行動事件が起きました。

日米修好通商条約を結ぶ際、攘夷論(外国を力で排除する)支持者を抑えるために幕府は孝明天皇に許可(勅許)を求めようと、朝廷に議案を提出しました。

しかし、この許可に反対した岩倉具視を含む88人の公卿が、条約案の撤回を求めて座り込みをしました。

この結果、孝明天皇は日米修好通商条約締結反対の意思を示すようになり、岩倉具視は孝明天皇から信頼されるようになりました。

さらには、江戸幕府の力も少し弱まり、朝廷の重要度は高まりました(幕府が実質的権力を握っており、それまでは天皇の権威をできる限り抑えていた)。




伊藤博文(いとうひろぶみ)

※画像は1957年発行のもの(C号券)

武士(長州藩)、明治時代の政治家。

1841年(天保12年)~1909年(明治42年)。(享年69歳)

伊藤博文は貧しい農民出身でしたが、武士の伊藤家に養子に入りました。

ただ、武士であっても身分が低く、藩校で学ぶことができませんでした。

そこで、身分が関係なく入ることができる吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)で学び、最終的に次のような功績を残されています。

  • 28歳のときに、兵庫県知事に就任
  • 31歳のとき、岩倉具視使節団のメンバーとして欧米へ行く
  • 45歳のとき、初代内閣総理大臣に就任
  • 60歳のとき、立憲政友会の総裁に就任
  • 65歳のとき、初代韓国統監に就任

などなど、貨幣制度や内閣制度などの導入に携わり、日本の近代化を進められていました。

 

夏目漱石(なつめそうせき)

※画像は1984年発行のもの(D号券)

日本の小説家、評論家、英文学者。

1867年(慶応3年)~1916年(大正5年)。(享年50歳)

夏目漱石の小説で一番有名なものに『吾輩は猫である』がありますよね。

その他にも

  • 『坊ちゃん』
  • 草枕
  • 三四郎
  • こころ
  • それから

などがあります。

ただ、最初から小説家になっていたわけではありません。

  • 13歳のとき、東京府第一中学校に入学する(漢学を志すため2年後中退)
  • 15歳のとき、二松学舎へ入学する(2か月後退学)
  • 17歳のとき、英文塾成立学舎に入学する(大学予備門予科の入学に英語が必要だった)
  • 18歳のとき、大学予備門予科(東京大学の予備機関)に入学する(正岡子規と出会う)
  • 24歳のとき、東京帝国大学英文学科に入学する(優秀だったので特待生に選ばれる)

というように、とても小説家になるというかんじはしませんよね。

東京帝国大学を卒業した後は

  • 東京高等師範学校の英語を担当する
  • 松山の愛媛県尋常中学校で英語教師を務める
  • 熊本県第五高等学校で英語教師を務める、結婚もする

そして、1900年(夏目漱石33歳)のとき、英文学の研究のため文部省からイギリスへ留学することになりました。

このまま英語教師として生きるのかと思いきや、留学中の英文学研究に対する違和感や、帰国後の東京帝国大学英文科講師としての授業が生徒に不評だったことが重なり、精神的に弱ってしまいました。

そんなとき、正岡子規の友人が創刊した『ホトトギス』という俳句雑誌に小説を書いて載せないか?という勧めを受けた夏目漱石は、次々と作品を世に送りだしました。

 

新渡戸稲造(にとべいなぞう)

※画像は1984年発行のもの(D号券)

日本の教育者、思想家。

1862年(文久2年)~1933年(昭和8年)。(享年72歳)

  • 14歳のとき、東京英語学校(現・東京大学)に入学する
  • 16歳のとき、札幌農学校に入学する
  • 22歳のとき、東京帝国大学(現・東京大学)に入学する
  • 23歳のとき、東京帝国大学を中退し、アメリカへ留学する
  • 26歳のとき、ドイツへ留学し農業経済学の博士号を取得
  • 30歳のとき、札幌農学校の教授になる
  • 42歳のとき、京都帝国大学(現・京都大学)の教授となる
  • 45歳のとき、東京帝国大学(現・東京大学)教授となる
  • 57歳のとき、東京女子大学の学長になる
  • 59歳のとき、国際連盟事務局次長となる

などなど、海外への留学で養った西洋の教育観で大学教授として活躍されていました。

1900年新渡戸稲造が39歳のとき、当時療養していたアメリカで『武士道』という本を執筆されました。

英語で書かれた『武士道』はアメリカのルーズベルト大統領も読まれ、さらには英語以外にも翻訳され世界的なベストセラーとなりました。

『武士道』の著者として国際的に認知されるようになったこともあり、1920年には国際連盟の事務次長に選ばれました。




福沢諭吉(ふくざわゆきち)

※画像は1984年発行のもの(D号券)

武士、蘭学者、思想家、教育者。

1835年(天保5年)~1901年(明治34年)。(享年67歳)

  • 20歳のとき、蘭学者の緒方洪庵の適塾(現・大阪大学)に入る
  • 23歳のとき、蘭学塾「一小家塾」を開く
  • 24歳のとき、日本人の力だけ(初)でアメリカへ渡る。
  • 28歳のとき、慶應義塾を設立する
  • 37歳のとき、『学問のすゝめ』

福沢諭吉はオランダ語だけでは世界に通用しないとわかり、英語も独学で勉強されました

西洋的な文化を海外から日本に持ち込んだ人物でもあります。

慶応義塾の設立や『学問のすゝめ』以外にも、北里柴三郎の伝染病研究所の設立に携わったそうです。

 

紫式部(むらさきしきぶ)

出典元:The Boring Life of Kyoto 留学生

平安時代の歌人、作家。

漢文の学者であった父の藤原為時の影響から、紫式部は幼少期から漢文の勉強をされていたそうです。

夫藤原宣孝が亡くなってからショックで心身ともに疲れ果てていた紫式部ですが、友人から勧められたとある物語を読んだことをきっかけに立ち直ることに。

そして、紫式部自身も物語を書こうということになり、『源氏物語』が生まれることになりました。

『源氏物語』は執筆中も友人などにも見せていたようで、噂は広がり藤原道長の目にも止まりました。

藤原道長は娘の彰子が一条天皇に気に入られ、最終的には2人の間に子ができることを望んでいました。(自分の政治への発言力を高めるため)

そのためか、漢文に精通していて歌人でもあった紫式部は彰子の世話係に加え家庭教師としても採用されました。

このときの経験が『紫式部日記』にも生かされています。

 

野口英世(のぐちひでよ)

※画像は2004年発行のもの(E号券)

明治時代に活躍した医師、細菌学者。

1876年(明治9年)~1928年(昭和3年)。(享年53歳)

  • 3歳のとき、いろりに落ちて左手に大やけどを負う
  • 17歳のとき、左手の手術を受け左手が少し開けるようになる
  • 22歳のとき、医師の資格をとる
  • 23歳のとき、北里柴三郎の伝染病研究所で働く(ペストの流行を止める)
  • 25歳のとき、北里柴三郎の紹介で渡米する
  • 29歳のとき、ロックフェラー医学研究所に入る

1918年にロックフェラー財団から黄熱病の研究の要請を受けた野口英世は、中南米へ向かいました。

野口英世の研究では黄熱病の原因は、レプトスピラ・イクロテロイデスという病原菌と結論づけられました。

この研究から作られたワクチンは中南米の高熱病の流行を抑えることに成功しました。

まさに、多くの人の命を救ったヒーローでした。

しかしながら、アフリカでも流行していた黄熱病は、残念ながら野口英世の研究結果から作られたワクチンが効きませんでした。

そこで、野口英世は自らアフリカへ行き現地で研究を続けました。

ですが、黄熱病の研究中に野口英世自身も黄熱病にかかってしまい、8日後亡くなられました。

 

樋口一葉(ひぐちいちよう)

※画像は2004年発行のもの(E号券)

明治時代の小説家。

1872年(明治5年)~1896年(明治29年)(享年24年)

本名は樋口奈津(ひぐちなつ)で、樋口一葉(ひぐちいちよう)は小説のペンネームです。

  • 10歳のとき、私立青海学校の高等科第四級をトップの成績で卒業
  • 15歳のとき、中島歌子の「萩の舎」に入門し、和歌や古典を学ぶ
  • 20歳のとき、「闇桜」で小説家デビュー
  • 23歳のとき、「大つごもり」を発表する
  • 24歳のとき、「たけくらべ」「にごりえ」を発表する

樋口一葉の母親は「女に学問はいらない」という考えをもっていたので、樋口一葉は進学することを諦め、12歳に学校を辞めました。

しかし、落ち込んでいる樋口一葉の姿を見て父は中島歌子の「萩の舎」に入門させました。

そして兄の死、借金をもった父の死からの貧しい生活を乗り越え、小説家デビューを果たします。

小説家の森鴎外(もりおうがい)からも、「たけくらべ」は評価は高かったそうです。

しかし、肺結核で24歳という若さでこの世を去りました。

 

渋沢栄一(しぶさわえいいち)

出典元:JIJI.COM

 

江戸時代・明治時代の武士、官僚、実業家。

1840年(天保11年)~1931年(昭和6年)。(享年91歳)

実業界の父、日本資本主義の父など呼ばれており、設立や育成した会社は500社以上だということです。

  • 24歳のとき、京都へ行き、一橋慶喜に仕える
  • 27歳のとき、パリ万博使節団の一員としてフランスを訪れる
  • 30歳のとき、静岡で商法会所を設立する、大蔵省に入る
  • 34歳のとき、大蔵省をやめ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)の設立を指導する
  • 62歳のとき、日本女子大学校を設立する

パリにいる間、経済や金融といった近代化に必要な仕組みの研究を行っていました。

大政奉還により、帰国が命じられ日本の近代化に努めることになりました。

産業を発展させていくためには、お金の流れを作らないといけないということで、いち早く銀行を設立しました。

1972年には紙幣や切手などの印刷を行う紙幣寮のトップに就任し、ドイツで印刷された紙幣(ゲルマン紙幣)を取り扱いました。




津田梅子(つだうめこ)

出典元:JIJI.COM

日本の教育者。

1864年(元治元年)~1929年(昭和4年)。(享年66歳)

津田梅子さんの父親は福沢諭吉と一緒にアメリカで農学を学んでいたそうです。

  • 7歳のとき、岩倉使節団の留学生としてアメリカに行く
  • 14歳のとき、私立女学校に進学し、ラテン語やフランス語を学ぶ
  • 18歳のとき、アメリカから日本に帰国するが再びアメリカへ
  • 19歳のとき、日本女性初の科学論文を執筆する
  • 21歳のとき、華族女学校(現・学習院女子中・高)・女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の英語教師になる
  • 26歳のとき、女子英学校(現・津田塾大学)を設立する

などなど、女子教育英語教育に力を入れてこられました。

11年間という長期間アメリカで過ごされてきたことから、日本語を忘れてしまったそうです。

しかも、日本の女性に対する価値観が津田梅子の西洋的な価値感とマッチせず、カルチャーショックを受けたこともあるといいます。

1回目の帰国のとき、かつて岩倉使節団で同じメンバーだった伊藤博文の通訳もしていたこともあります。

また、伊藤博文の推薦で華族女学校(現・学習院女子中・高)の英語教師もされました。

 

北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)

出典元:JIJI.COM

医学者・細菌学者。

1853年(嘉永5年)~1931年(昭和6年)。(享年79歳)

  • 18歳のとき、熊本医学校(現・熊本大学医学部)に入学する
  • 21歳のとき、東京医学校(現・東京大学医学部)に入学する
  • 30歳のとき、内務省衛生局に入り、細菌の研究を行う
  • 33歳のとき、ドイツのベルリン大学に留学する
  • 39歳のとき、福沢諭吉の支援で私立伝染病研究所を設立する
  • 44歳のとき、私立伝染病研究所が東京大学の一部にされる
  • 61歳のとき、私立北里研究所(現・社団法人北里研究所)を設立する

などなど、細菌の研究や予防医学に努めました。

学生時代はオランダ医師のマンスフェルトから語学や医学に関することを学び、ドイツの留学先では「病原微生物学研究」の第一人者のコッホと共に研究を行いました。

東京医学校(現・東京大学医学部)を卒業した後、長崎でコレラが流行りました。

北里柴三郎は長崎へ調査に行き、日本で初めてコレラ菌を発見しました。

その後、ドイツのコッホの研究室では世界で初めて破傷風(はしょうふう)という全身がけいれんしてしまう病気の原因である、破傷風菌を増やすことに成功しました。

これにより破傷風の治療法を発見し、北里柴三郎は世界中で知られるようになりました。

この功績から欧米の機関からスカウトを受けますが断り、日本に帰国し「私立伝染病研究所」(現・東大医科学研究所)を設立しました。

当時、政府から力を借りれずにいたところ福沢諭吉が手を差し伸べ、福沢諭吉が身銭を切って支援したそうです。

この恩返しとして、福沢諭吉が設立した慶応義塾大学に医学部を創設し、北里柴三郎自ら医学生を指導しました。