【紙幣人物一覧】紙幣になった人物歴代まとめ!何をした人なの?

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津田梅子(つだうめこ)

出典元:JIJI.COM

日本の教育者。

1864年(元治元年)~1929年(昭和4年)。(享年66歳)

津田梅子さんの父親は福沢諭吉と一緒にアメリカで農学を学んでいたそうです。

  • 7歳のとき、岩倉使節団の留学生としてアメリカに行く
  • 14歳のとき、私立女学校に進学し、ラテン語やフランス語を学ぶ
  • 18歳のとき、アメリカから日本に帰国するが再びアメリカへ
  • 19歳のとき、日本女性初の科学論文を執筆する
  • 21歳のとき、華族女学校(現・学習院女子中・高)・女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の英語教師になる
  • 26歳のとき、女子英学校(現・津田塾大学)を設立する

などなど、女子教育英語教育に力を入れてこられました。

11年間という長期間アメリカで過ごされてきたことから、日本語を忘れてしまったそうです。

しかも、日本の女性に対する価値観が津田梅子の西洋的な価値感とマッチせず、カルチャーショックを受けたこともあるといいます。

1回目の帰国のとき、かつて岩倉使節団で同じメンバーだった伊藤博文の通訳もしていたこともあります。

また、伊藤博文の推薦で華族女学校(現・学習院女子中・高)の英語教師もされました。

北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)

出典元:JIJI.COM

医学者・細菌学者。

1853年(嘉永5年)~1931年(昭和6年)。(享年79歳)

  • 18歳のとき、熊本医学校(現・熊本大学医学部)に入学する
  • 21歳のとき、東京医学校(現・東京大学医学部)に入学する
  • 30歳のとき、内務省衛生局に入り、細菌の研究を行う
  • 33歳のとき、ドイツのベルリン大学に留学する
  • 39歳のとき、福沢諭吉の支援で私立伝染病研究所を設立する
  • 44歳のとき、私立伝染病研究所が東京大学の一部にされる
  • 61歳のとき、私立北里研究所(現・社団法人北里研究所)を設立する

などなど、細菌の研究や予防医学に努めました。

学生時代はオランダ医師のマンスフェルトから語学や医学に関することを学び、ドイツの留学先では「病原微生物学研究」の第一人者のコッホと共に研究を行いました。

東京医学校(現・東京大学医学部)を卒業した後、長崎でコレラが流行りました。

北里柴三郎は長崎へ調査に行き、日本で初めてコレラ菌を発見しました。

その後、ドイツのコッホの研究室では世界で初めて破傷風(はしょうふう)という全身がけいれんしてしまう病気の原因である、破傷風菌を増やすことに成功しました。

これにより破傷風の治療法を発見し、北里柴三郎は世界中で知られるようになりました。

この功績から欧米の機関からスカウトを受けますが断り、日本に帰国し「私立伝染病研究所」(現・東大医科学研究所)を設立しました。

当時、政府から力を借りれずにいたところ福沢諭吉が手を差し伸べ、福沢諭吉が身銭を切って支援したそうです。

この恩返しとして、福沢諭吉が設立した慶応義塾大学に医学部を創設し、北里柴三郎自ら医学生を指導しました。

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