和気清麻呂(わけのきよまろ)
※画像は1910年発行のもの(乙号券)
第11代垂仁天皇の第5皇子。
733年(天平5年)~799年(延暦18年)。(享年67歳)
和気清麻呂は道鏡(どうきょう)という人物の野望を阻止したというとある事件で有名です。
その事件は769年に起こり、『宇佐八幡神託事件(道鏡事件)』と呼ばれています。
称徳天皇(しょうとくてんのう)という女帝に気に入られていた道鏡は、僧侶でありながら天皇の政治にもかかわっていました(仏教中心の政策を推進していた)。
さらに、称徳天皇は道鏡を「政治顧問」から「天王」として後を継がせようと画策しました。
天皇の血が流れていない道鏡に天皇のポジションを与えるために称徳天皇は、「神託(神のお告げ)」を利用することにしました。
称徳天皇の意思を汲み取ってか、直接命ぜられたか分かりませんが、
道鏡の弟と大宰主神の習宜阿曾麻呂(なかとみのすげ の あそまろ)は次のように「宇佐八幡の神託」を朝廷(天皇による政治機関)に伝えました。
「道鏡を皇位につければ天下太平(争いごとがなく社会が安定する)」
この内容が事実であると裏をとるために、あえて称徳天皇は和気清麻呂に宇佐八幡へ向かわせることになりました。
つまり、上記の神託が真実かどうかにかかわらず「和気清麻呂、空気を読んでね!」ということですね。
しかし、宇佐八幡での神託では「天皇の血を引かない道鏡を排除するべし」という内容でした。
この内容を持ち帰り、和気清麻呂は称徳天皇にストレートに伝えたため、称徳天皇の怒りを買い鹿児島へ流罪となりました。
ですが、「道鏡事件」の翌年770年に称徳天皇が失脚した後は道鏡も没落し、現在に至るまで天王の血が続いています。
結果を見れば、天皇の血を途絶えさせることを、和気清麻呂が阻止したことになりますね。
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)
※画像は1910年発行のもの(乙号券)
飛鳥時代の政治家で「藤原氏」の始祖。
614年~669年。(享年56歳)
中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、後の天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と協力して、「大化の改新」を進めたことで有名です。
645年に「乙巳の変(いつしのへん)」という反乱が起きました。
ことの発端は、厩戸王(うまやどのおう・聖徳太子)が亡くなったあと、豪族の蘇我氏が天皇家よりも力をもつようになったことです。
聖徳太子の政治の補助をしていた蘇我馬子(そがのうまこ)の息子である蘇我蝦夷(そがのえみし)と孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が自動的に大臣になり、豪族が支配する世の中になりました。
蘇我氏が力を持ち始めたのを危機に感じた中臣鎌足と中大兄皇子によって、蘇我氏の蘇我蝦夷を殺害し、蘇我入鹿(そがのいるか)を自殺に追い込みました。
蘇我氏を滅ぼした以降数年間に「大化の改新」という政治改革が始まりました。
行った内容としては
- 公地公民制(全ての土地は天皇のもの)
- 国郡制度(全国を60以上の国に分けて、天皇をトップにする)
- 班田収授法(天皇が土地を農民に貸す)
- 租庸調の税制(米・労働・地方の特産品を税として納めさせる)
大化の改新により、豪族中心の政治から天皇中心の政治に変わりました。