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伊藤博文(いとうひろぶみ)
※画像は1957年発行のもの(C号券)
武士(長州藩)、明治時代の政治家。
1841年(天保12年)~1909年(明治42年)。(享年69歳)
伊藤博文は貧しい農民出身でしたが、武士の伊藤家に養子に入りました。
ただ、武士であっても身分が低く、藩校で学ぶことができませんでした。
そこで、身分が関係なく入ることができる吉田松陰(よしだしょういん)の松下村塾(しょうかそんじゅく)で学び、最終的に次のような功績を残されています。
- 28歳のときに、兵庫県知事に就任
- 31歳のとき、岩倉具視使節団のメンバーとして欧米へ行く
- 45歳のとき、初代内閣総理大臣に就任
- 60歳のとき、立憲政友会の総裁に就任
- 65歳のとき、初代韓国統監に就任
などなど、貨幣制度や内閣制度などの導入に携わり、日本の近代化を進められていました。
夏目漱石(なつめそうせき)
※画像は1984年発行のもの(D号券)
日本の小説家、評論家、英文学者。
1867年(慶応3年)~1916年(大正5年)。(享年50歳)
夏目漱石の小説で一番有名なものに『吾輩は猫である』がありますよね。
その他にも
- 『坊ちゃん』
- 草枕
- 三四郎
- こころ
- それから
などがあります。
ただ、最初から小説家になっていたわけではありません。
- 13歳のとき、東京府第一中学校に入学する(漢学を志すため2年後中退)
- 15歳のとき、二松学舎へ入学する(2か月後退学)
- 17歳のとき、英文塾成立学舎に入学する(大学予備門予科の入学に英語が必要だった)
- 18歳のとき、大学予備門予科(東京大学の予備機関)に入学する(正岡子規と出会う)
- 24歳のとき、東京帝国大学英文学科に入学する(優秀だったので特待生に選ばれる)
というように、とても小説家になるというかんじはしませんよね。
東京帝国大学を卒業した後は
- 東京高等師範学校の英語を担当する
- 松山の愛媛県尋常中学校で英語教師を務める
- 熊本県第五高等学校で英語教師を務める、結婚もする
そして、1900年(夏目漱石33歳)のとき、英文学の研究のため文部省からイギリスへ留学することになりました。
このまま英語教師として生きるのかと思いきや、留学中の英文学研究に対する違和感や、帰国後の東京帝国大学英文科講師としての授業が生徒に不評だったことが重なり、精神的に弱ってしまいました。
そんなとき、正岡子規の友人が創刊した『ホトトギス』という俳句雑誌に小説を書いて載せないか?という勧めを受けた夏目漱石は、次々と作品を世に送りだしました。