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紫式部(むらさきしきぶ)
平安時代の歌人、作家。
漢文の学者であった父の藤原為時の影響から、紫式部は幼少期から漢文の勉強をされていたそうです。
夫藤原宣孝が亡くなってからショックで心身ともに疲れ果てていた紫式部ですが、友人から勧められたとある物語を読んだことをきっかけに立ち直ることに。
そして、紫式部自身も物語を書こうということになり、『源氏物語』が生まれることになりました。
『源氏物語』は執筆中も友人などにも見せていたようで、噂は広がり藤原道長の目にも止まりました。
藤原道長は娘の彰子が一条天皇に気に入られ、最終的には2人の間に子ができることを望んでいました。(自分の政治への発言力を高めるため)
そのためか、漢文に精通していて歌人でもあった紫式部は彰子の世話係に加え家庭教師としても採用されました。
このときの経験が『紫式部日記』にも生かされています。
野口英世(のぐちひでよ)
※画像は2004年発行のもの(E号券)
明治時代に活躍した医師、細菌学者。
1876年(明治9年)~1928年(昭和3年)。(享年53歳)
- 3歳のとき、いろりに落ちて左手に大やけどを負う
- 17歳のとき、左手の手術を受け左手が少し開けるようになる
- 22歳のとき、医師の資格をとる
- 23歳のとき、北里柴三郎の伝染病研究所で働く(ペストの流行を止める)
- 25歳のとき、北里柴三郎の紹介で渡米する
- 29歳のとき、ロックフェラー医学研究所に入る
1918年にロックフェラー財団から黄熱病の研究の要請を受けた野口英世は、中南米へ向かいました。
野口英世の研究では黄熱病の原因は、レプトスピラ・イクロテロイデスという病原菌と結論づけられました。
この研究から作られたワクチンは中南米の高熱病の流行を抑えることに成功しました。
まさに、多くの人の命を救ったヒーローでした。
しかしながら、アフリカでも流行していた黄熱病は、残念ながら野口英世の研究結果から作られたワクチンが効きませんでした。
そこで、野口英世は自らアフリカへ行き現地で研究を続けました。
ですが、黄熱病の研究中に野口英世自身も黄熱病にかかってしまい、8日後亡くなられました。